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精神論と「弱い心」へのスパルタ

強迫観念とは、既成書による従来の定義からいうと、込み入った変態的、病的異常のようであるが、私にいわせれば、極めて簡単である。それは我々の日常、自然の感想に対して、自ら殊さらに、そうであってはならなぬと反抗し、苦悩するものである。即ちその感想そのものが病的であるのではない。これを病的と思いちがえて、徒にこれに反抗するところの反抗心そのものが異常を引き起こすのである。(「赤面恐怖の治し方」森田正馬、高良武久)



「『強い自我』ほど脆くなる矛盾」で触れたように、「心を強くする」「傷つかない精神を手にしようとする」といった試みは常に、否定するはずの「弱い心と傷つきやすい精神」の問題を却って誇張する結果を招く。傷つくとは、人間が人間である限り避け得ない自然な感情の一部であり、その感情を無闇に検閲すればするほど、隠蔽されたものは蓄積し、やがてせき止めきれなくなって表出する。
怒りや憎悪、悲しみや恐怖など「負の感情」の検閲は普遍的に、その否定しようとする感情(や性質)を誇張し、より大きな脅威として押し返すという逆説的な性質を持っていると言える。



精神万能論と精神へのスパルタ


「強い精神」を目指そうとする試みは自然に、「精神」に対するスパルタ教育的な暴力に結びつく傾向がある。
ふつう、つまり「弱い精神」なるものに悩んでいない人間にとって、「傷つく出来事」と「傷ついた自分」では前者のほうが問題である。たとえば、不当に罵倒してくる人はなるべく避ける、過酷な環境よりは安全な環境を選択する、体力の限界を超える前に休息を取る、といった判断は、「自分」のキャパシティではなく問題を避けることのほうに焦点を当てている。
しかし、「弱い精神」に悩み、おのれの弱さを抑圧しようと考える人間にとって、問題は罵倒してくる人間ではなくそれに傷つく自分であり、過酷な環境ではなくそれに耐えられない自分であり、限界を超えた労苦ではなくそれを乗り越えられない自分だということになる。
この「忍耐」というストイシズムが、「精神的に弱い人」のキャパシティをさらに圧迫する。なぜならこの人は、あらゆる問題の根源を「精神的な弱さ」に帰結し、現実の問題そのものに対処するどころか、自分自身を追い込もうとし、精神に対してそのような過酷な状況に耐えられることを求め、耐えられなかった精神に「弱い」という烙印を押すからである。
このようなストイシズムによって、精神はさらに追い込まれて疲弊し、あるいは再起不能になるまで叩きのめされ、「弱い精神」という烙印は自作自演的に正当化されるが、それは初めに問題の根源を「弱い精神」に位置付け、さまざまな要因を精神の弱さのもとに単純化し、現実や、環境や、肉体的な問題ですら「精神」の内部で解決しようと試みたために他ならない。



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△精神の酷使


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