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気候変動と加速主義

ここでの矛盾は、気候変動がもたらす災害に対して責任を負っている富裕層ほど、その否定的帰結から逃れるための技術や資本を持っており、責任がないその他大勢の人ほどその被害にさらされやすいということである。

(引用元:グレタさんが訴える気候変動の正義は「新たな階級闘争」だ  より、斎藤幸平氏)


環境問題は富裕層によって引き起こされ、その他大勢を直撃する。であれば本来、グレタ・トゥンベリによる気候変動への主張は”その他大勢”によって支持されるものと考えられるが、ご存知のように彼女に対する大人たちの反応は冷ややかだ。この理由について考えると、本来対立しているはずの「環境を破壊する富裕層」と、「彼らによって未来を奪われるその他大勢」が不思議な共犯関係を結ぶという構造が浮かび上がる。



個人に対して「環境問題によって我々の未来が奪われている」こと、そして「そのためにすべきことがある」ことを啓蒙するためには少なくとも以下の2つを認めてもらう必要がある。

(a)気候変動は私たちの未来を破壊している

(b)未来を守るために行動を起こすべきだ


未来が破壊されているという事実と、未来を守るべきだという意見の同意によってようやく個人が環境問題に対して当事者であるという自覚が得られる。つまり、どちらか一方だけが達成されていても意味がないのである。

まず、「(a)気候変動は私たちの未来を破壊している」が達成されない状況を考えてみよう。これほど簡単なことはない。グローバル資本主義、新自由主義といった個の利益を最大化する競争的な考え方に同意した人物は、そもそも自己の利益を他人より重視することを問題視しない、それが競争なのだから。これは現在という時間軸で考えれば、自国の利益のために遠くの発展途上国の環境が破壊されることは問題ではない、という考え方に帰結できる。さらにこの考え方を、自国と他国という地理上の関係から現在の人間と未来の人間という時間的関係性に延長すれば、現在の人間の利益のために未来の人間の―――つまり若者、子供、子々孫々の―――幸福が破壊されるというのは「問題」ではなく「現実」なのだと捉えらえるだろう。未来の人間は、まだ誕生していないということをもって、現在の人間との競争に敗れ、淘汰されるのである。

また、正常性バイアス、何も問題は起きていないと考えたがる心理や、単に何も咎められたくないという道徳的潔癖によっても「問題はない、全てはこのまま続いていく」という結論に辿り着くことは容易だろう。誰にでもあることで、異常なことだとは言えない。


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