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自己主張はなぜ嫌われるかー甘えと自立の二重規範

先日、新型コロナウイルス対策に追われた東京女子医大の看護師のうち400人あまりが、夏のボーナス”全額カット”を受けて退職希望というニュースがありました。その後、一転して支給を「前向きに検討する」という続報がありましたが、ストライキや交渉なしでいきなり退職という意思表示は印象に残るものでしたね。これについて、Twitterには以下引用のような感想が上がっていました。




個人的に、「根性がひん曲がってる」と言いたいわけではないのですが、実際私たちの文化はデモやストのような権利を主張するアクションに対して「特別に冷笑的な」雰囲気があるように思います。また、過酷な労働環境を訴える人がいたら、「だったら別の職に就けばいい」と自己責任論的に突き放され、そもそも搾取が横行していること自体が問題視されなかったりします。一体どうしてなんでしょうか?

これに関係して少し思い出したことがあったので、書き連ねてみたいと思います。参考になるかわかりませんが、話半分に見てもらえればと思います。



さて、ひとくちに「大人になる」といってもその条件は所属している文化や社会的環境に左右されます。それはAという文化では大人だとされる態度は、別の文化Bでは子どもじみているとされるし、逆に文化Bで大人だとされている態度は文化Aでは子どもっぽいと考えられるということを意味します。

「大人になる」ことは―――家庭に所属して、両親の庇護を受けている子どもが社会に出て他者と関わるすべを得ることを意味します。ということはもしも、社会が家庭のようなものであれば、私たちはスムーズに「大人になる」ことができて、反対に社会が家庭と乖離していれば大人になるのは苦痛と困難を伴うということになります。

では、欧米モデルと日本(ここでは、文化が欧米化される前の)での「大人」の大きな違いは何かというと、それは「他者との交渉」です。



「日本の大人」が社会に所属すると、石の上にも三年というように、まず忍耐ということを覚えさせられてきました。丁稚奉公のような待遇や時にはハラスメントのような理不尽に耐えて、「何も求めずに」懸命に奉仕します。懸命に奉仕した結果、こいつは骨があるということになって一人前に迎え入れられます。交渉の代わりにあるのは献身と自己犠牲です。

他者との関係も同様に、「何も求めずに尽くす」という奉仕を互いに施し合うことによって成立します。私があなたに何も求めずに尽くす代わりに、あなたも私に何も求めずに尽くすのです。これは何も求めないのに自分に尽くしてくれる親と、その親に報いる自分という「甘え」の関係の延長ではないかとも言われています。

この文化では、私があなたに何かを求めているとき、私は求めているものを言わずに「尽くし」ます。私が尽くしたら、あなたは私が求めているのを察して報いなければなりません。よく、フィクションなどで中年が「こんなに尽くしてきて会社からは何の見返りもない」と愚痴るシーンがありますが、これが古い日本的な社会人の態度だといえます。求めずに尽くすのです。

何も求めない態度が理想的な他者との関わりであるということは、もうお気づきかもしれませんが、自分の権利や欲しいもの、求める待遇を主張したり、大っぴらにすることは「子どもっぽい」「はしたない」ということになります。つまり、権利を主張したり、待遇改善を求めると、あいつはわがままだとか、ものを分かっていないということになるのです。なので、待遇について不平不満を言わずにただ耐えながら奉仕するのが古い「日本モデル」ということになります。


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ここから知識が怪しくなってくるので、気をつけながら読んでほしいのですが、その日本も、近代化の流れに抗えず、敗戦もあって欧米モデルの社会を導入することになりました。ここで問題になるのは、欧米的なシステムで求められる社会人、つまり大人の態度が、尽くすのではなく「主張/交渉する」という関わりを要求するものだった点です。欧米的民主主義での自立した大人は、自分の求めているものを、自分の権利を、自分の意見を「主体的に」主張するということを求められます。反対に、自分の権利を主張せずに、つまり何が欲しいのか、何がしたいのかの交渉に立たずに、それが与えられないからといって拗ねるのが「子どもだ」ということになります。それは日本の「大人」の文化と大きく異なるものでした。わがままだ、子どもだ、と言われていたことをこんどは求められることになるのです。日本人はここから、もともとなかった「主体性」を求められることになります。

さて、「見返りを求めずに尽くす」ことによって相手に期待するという風土が根づいている国に、「自分の立場・権利を主張する」というシステムが組み込まれるという矛盾にあたって、当初の会社組織は今よりももっと家族的、共同体的なものにローカライズすることで対応したようです。実力社会と相反する終身雇用や年功序列によって、つまり会社を家族的なものに見立てることで「日本的な会社」というシステムが構築されました。この家族的な要素を取り入れたシステムは、私たちの知るとおりゆるやかに崩壊し、グローバル資本主義的な価値観に取って代わりました。



取り残された「大人」


しかし、システムが欧米的に最適化されたといっても「文化」は、つまり私たちの無意識的な思考や習慣にまで根付いている風土はそう簡単に変わるものではありません。私たちは―――システムが定義している文化と精神的風土に根付いている文化の板ばさみに遭っているといえます。このために、先に言ったような「ある文化では子どもとされている態度」を「別の文化の大人として」取ってしまう、という文化的なギャップが現前します。

たとえば、日本ではクレーマーの存在はまさにそのギャップを体現していると言えます。古い日本文化では「お客様は神様」だというように、「求められなくても尽くす」「要求されていないレベルまで達成する」という、先手を打って献身的な自己犠牲を払う態度が「大人」だということになります。しかし、欧米的なシステムでは経済交換の原則は対等であり、消費者は商品やサービスに妥当な対価を支払ってフェアな取引をします。売り手と買い手に上下関係はありません―――納得できないのなら買わなければいい、ということになります。

クレーマーは、日本的な自己犠牲の文化に取り残されたままであり、店側に対して対価以上のサービスを求めます。この態度は、交渉とフェアな取引の原則から言えば「相手に必要以上のことを求めている・子どもっぽいわがまま」だということになります。ところが、その文化に馴染まないクレーマーの視点では「こちらが求めている以上のサービスを提供する」というのが「立派な大人の態度」であり、相手が自分に尽くしてくれないのはおかしい、ということになるわけです。このせいで、周りから見れば甘えて駄々をこねている人が相手に対しては「甘えてはいけない」と主張している、という俯瞰するとおかしな状況が起こることになります。

また、日本的な自己犠牲の原則<求められる以上に尽くす>とフェアな取引の原則<妥当な対価を支払う>が同じ社会に並行して存在しているということは、両者から都合のいい部分を融合したハイブリッドな思想が生まれてくることになります。

「やりがいの搾取」はまさにこの自己犠牲的な原則と取引の原則を混ぜ合わせた考え方です。労働者はあたかも古い日本の忠義のように雇用主に対して<尽くす>ことを求められます。しかし、対価に関してはその自己犠牲に報いるというような日本的文化ではなく、ドライなグローバル資本主義的な文化で管理されます。結果として、過剰な奉仕的労働(低賃金、長時間労働、サービス残業…)とリスキーな雇用形態(派遣、非正規、ギグ・エコノミー…)が同時に実現されている地獄のような環境が誕生することになります。さんざん尽くして捨てられるのです。



このような過酷な労働環境に対して労働者が声をあげる手段としてデモ・ストがありますが、ご存知のとおり私たちの文化にはこういった権利主張に対して冷笑的なムードが根を張っています。

これには複数の原因が考えられますが、その中のひとつが私たちの文化に未だに「自己主張するのは子どもじみている」という古いコードが残されていることだと考えられます。大人は立場と権利について交渉する、というシステムを取り入れていながら、私たちは依然として「自己主張するのは子どもっぽい」という精神風土を持っているので、権利を主張している人たちに対して無意識的な嫉妬とか嫌悪感を抱いてしまうわけです。

面白いことに、というのは不適切かもしれませんが、「権利を主張するのはみっともない」という考え方は「日本的自己犠牲」の精神とは縁遠い新自由主義的な立場と交錯します。新自由主義的な立場では、強くあるべきなのは個人であり、社会は小さければ小さいほどよいため、社会に多くを求めている人は馬鹿げている、というロジックが成り立ちます。この点で、個人主義を突き詰めた立場と自己犠牲を是とする立場では「主張する人」への態度が最大公約数的に一致します。個人主義と自己犠牲主義は思いもよらない部分で親和性が高かったわけです。

デモやストのような集団的活動のみならず、意見を言うとかイデオロギー的な立場を明言するという個人的な表現にも、「自己主張=子どもっぽい、自立していない」という見方と「ちゃんと意思表明していて立派だ」という味方が並行して存在していることになります。権利を主張するとか意思表明するということは、ある人にとっては大人の態度であり、またある人にとってはわがままな、世間知らずの態度だということになるのです。



このふたつの文化の差異は、個人においては自分の求めていることを「直接的に表明」するのか、それとも相手がそうしてくれるように「懸命に尽くす」のかという考え方の違いとして現れます。多くの人は、このふたつの考え方を相手や場面によって使い分けなければならないため、二重規範に陥り、混乱することになります。ドライな人に尽くしてしまったり、自己犠牲的な人の意図を組めなくて恨まれてしまったりするわけです。

献身的な自己犠牲は、私たちの文化では誰かと信頼関係を結ぶために有用な手段だったといえます。この方法のメリットは、自分が何を求めているのかを言わずに済むことであり、デメリットはそのまま「何を求めているのかを言うことがわがまま・差し出がましい」態度だとされてしまうことです。

このような二重規範があるために、私たちの文化では正当に権利を行使する手順が卑怯だとか世間知らずだとかわがままという批判を受けることになります。このため、自己犠牲的な献身が続く一方で不当な扱いに対するフラストレーションが蓄積され、ある日爆発するというような光景が起こるのではないでしょうか。

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