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「嫉妬する人」との付き合い方

精神的に自立していない人間は他者との境界が曖昧だといわれる。このような関係で働いているのはいつでも投影、すなわち自分の抱えている問題を他人のものにすり替える力学である。

たとえば精神的に自立していない親の典型的な例として、自分が勉強してこなかった過去への悔恨、無知や無学さへのコンプレックスを子どもに対して投影し、無目的に勉強するように強要する場合がある。この場合、子どもはどうして、どのように、どの程度勉強すればよいかについて納得のいく説明を受けることなく、どれだけ勉強してもまだ足りないと言われることになるが、それは子どもが勉強することによって解決されるべき問題が親の無学、無知へのコンプレックスだからである。

人がなぜ自分の問題の存在を認めずに、他人の問題だと考えたがるかについて、ひとつの指針になるのが認知不協和という考え方である。認知不協和理論では、ある人の現実認識と行動が明らかに矛盾しているとき、行動ではなく現実認識のほうが改変される。

上の例では、自分が無知で無学なのは恥ずかしいことだと認識している人間が、それでも何も勉強しようとしていない自分を正当化しなければならないとき、無知で無学なのは自分の子どもであり、自分が恥に感じているのは子どもの問題だと考えることで(投影)、恥に感じていながら勉強しようとしていないという「認識と行動のズレ」という矛盾が解決される。

投影で正当化されるのは主に、自分がすべきだと思っていることをしていない現実、あるいは反対にしたくないと思っていることをしている現実、感じてはいけないはずのことを感じている現実…といった矛盾の数々である。この点で、投影する人は他人についてとやかく言って槍玉に挙げるが、いつでも自分について何か言っているのである。



投影する人は誰を相手に何を言っているのであれ、自分について語っている



オーストラリアにはトールポピー・シンドローム<背の高い花は妬まれる>という、成功者や目立つ人に対する嫉妬・羨望を意味する言葉がある。日本にも「出る杭は打たれる」と言われるように、目立ったり、成功しようとする人があたかも「抜けがけ」を試みたように扱う文化が存在する。嫉妬・羨望の原理で動く人たちは、限界集落から都会に出ようとする若者を厳しく監視する老人とか、憧れの生徒に誰も接近しないように協定を結ぶ中学生のような生暖かい「禁止のサークル」を形成する。

もしも、ある人に強く希望している夢があって、しかしそれが親の大反対に遭って別の道を選ばざるを得なかったとしたら、この人は親になったとき、またしても子どもの夢に大反対する親になるだろう。また、ひどい環境の職場にいながら、そのことに耐え続けている人が、同じような境遇を訴えている人を見るにつけ「そんなのは誰でも我慢していることだろう」と諭すのは何故だろうか。

これらの働きかけはすべて、無意識的に「自分の行動の正当化」という認知不協和的な動機を孕んでいる。つまり、自分がムラに対して嫌気が差していてもムラを出ていかない人は、そうしないことに対して「ムラを見捨てるわけにはいかないから」と善意によって正当化し、そのかわり「抜けがけ」する若者を叩く。あの男の子、あの女の子と付き合いたいと思っていても、その勇気の出ない生徒たちは、「あの子に手出ししない」という禁止を互いに形成して、自分がそうしないのは禁止のためであると正当化することで葛藤の苦痛から逃れようとする。反対に遭ったことで自分の夢を諦めた親は、夢を諦めたのは自分の意志ではなくて強い禁止があったからだと考えることでその禁止をひとつのルールとして子どもに遺伝する。ひどい境遇にありながらそこから逃れる勇気を持たない人は、世の中どこもそのようなものであり、逃げることは許されないと考えることで逃げ出そうとしない自分を正当化し、逃げ出す人たちを非難がましく扱う。


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△投影性の嫉妬


嫉妬・羨望のサークルで一種の「禁止の約束」がこれほどまでに重要視されるのは、禁止というルールがすべきだと思っている行動を取らない自分の矛盾を正当化するからであり、彼らが目立つ者や成功者を妬むのは、純粋な成功や境遇ゆえにではなく、本当は禁止など存在していないという事実が、自分が矛盾した行動を取っているという<自己批判的な現実>を想起させるからに過ぎない。つまりこの人たちは、自分で何かを「しない」とか「する」と決断するために責任を負っておらず、禁止のようなルールに従って仕方なくそうしていると納得してきたので、今さら自分に選択肢があったと知らされると「お前は何をしているのだ」という自問自答に晒されてしまうのである。

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