「居心地のわるい幸福」と自己処罰
わたしたちは生まれつき良心や罪悪感といった道徳的規範を持っているのではなく、これらの感覚は両親のしつけや教育といった「外部からの影響」を経験的に内在化したものに過ぎないが、フロイトはこの領域を自我と切り分けて「超自我」の管轄とした。
したがって、わたしたちは「良心の呵責」や「罪悪感」といった感覚を、自我の管轄である意識的な判断によって、これから罪悪感を感じようとしてそうするのではなく、自己の「内部にある外部」とでも言うべき超自我の言うがままに咎められ、償いにせき立てられる。
このことは、もしも形成された超自我(良心)の内部に欲望を阻害する要素が含まれれば、その「良心の呵責」が欲望を感じるごとに、理不尽に自己を襲うことを意味する。ある種の人は、身分不相応に恵まれた(幸福な)環境を避けようとするか、そうでなければこの「良心の呵責」を具現化するために両親に代わって自己を処罰する。フロイトはこのような人びとを「成功したら破滅する人」と呼んだ。
△不相応な幸福は「居心地が悪い」
人は幸福を目指すのであれ、不幸を目指すのであれ、自己の内部に一定の規準を設けたうえで外部の環境をそれ相応に再現するものであり、この規準は一般に自己評価などと呼ばれる。自己評価を文字通り「自分による・自分に対する」評価とすれば、それは外部の尺度によって証明することのできない何の根拠もないものとしか言えないが、その何の根拠もない自己認識がその人の選択する環境を左右する基準となるのである。
なかでも、自分の満足する選択をできる人を「自己肯定感のある人」、そしてそうでない人を「自己肯定感のない人」などと呼んだりする。あくまで欲望を満足させることを合理的とみなすならば、「自己肯定感のある人」が特別によい環境を選択する能力を持っているというより、そうでない人、幸福や満足、心地よい環境を意図的に避ける人―――すなわち「成功したら破滅する人」びとのほうが特別な傾向を有していると見るほうが自然である。
後者の人びとにとって、欲望を満足させることや、満ち足りている状態とは、罪悪感を覚えさせるような、居心地の悪いものであり、この後ろめたい感覚を帳消しにすることこそが、さまざまな形で自己を処罰し、貧困化する行動の動機だといえる。
この処罰としての自己貧困化の例は、次のようなものである。
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