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再強化するリアリズム

最近、子供の平均的な体力低下が著しいという。原因としてはスマートフォン、動画サイト、ゲームといった室内遊戯の定着によって子供が体を動かす習慣が奪われていることが挙げられている。しかし、あなたは公園で子供を遊ばせることができない。社会が子供に対して不寛容だからだ。第一に、子供の声を不快な騒音だとして苦情を入れる老人たちが存在する。第二に、それに合わせて公園のほうでも球技禁止、危険な遊戯禁止といったふうに規制をもって事前にトラブルを防ごうとする。第三に、子供に声をかける変質者の存在によって親たちも安心して公園を利用することができない。こうした不寛容の積み重ねによって親は子供をより安全な情報端末やゲームに預けざるを得なくなる、等々。



不寛容さの指摘は、寛容さに対立している概念に対立している、つまり寛容さを目指すものと考えることができる。言い換えれば、何かを不可能にするメカニズムを指摘することはその何かを再び可能にするという目的に応じているものと考えることができる。しかし僕たちが繰り返し目撃してきた現実に沿えば、不寛容さの指摘が、あるいは不可能性の指摘こそが、まさにその種の不寛容と不可能性を強化していくことを認めざるを得なくなるのではないだろうか。

冒頭の例では、公園が公共の場ではなくなっているという指摘は、一見すると子供が公園で遊べない状況と対立しているように思える。しかし、ここで重要なのは「老人がクレームを入れるために子供を公園で遊ばせることができない」という理屈は例えばネット上のような、その老人の存在しないところで流布されるということだ。親たちは、クレームを入れる老人という半架空の存在に怒り、実際の彼らが不在のところでその怒りをキャッチボールする―――そこで、老人のクレームの実在を媒介せずに、「老人がクレームを入れるために子供を公園で遊ばせることができない」という不可能性はその強度を増すことになる。こうして子供が騒ぐのを嫌う架空の老人は、静かな公園で架空の肉体を休めることができるわけだ。このとき結ばれるのは、実際に存在している脅威ではなく、脅威そのものの伝聞によって脅威の目的が達成されているという共犯的な関係である。

たとえば、道路に野性動物注意の看板が出ているとき、運転者はその実在に問わず一律で減速せざるを得なくなる。このとき、実際にはその道路に野生動物が存在せず、看板だけが置かれていたとしても運転者は看板という可能性の介在によってそれが存在するかのように振舞わなければならないことに変わりはない。つまり脅威は、実在することではなく可能性として存在することでその目的を十分に達成し得るのである。



乱反射するリアリズム

リベラル闘争が相手取る差別、偏見や外見至上主義といった問題が一般に加害者から被害者への一方通行的なアクションとして理解されているのに比して、資本主義リアリズム―――この道しかないという諦観―――のような一種の不可能性の価値観は、むしろその被害者たちの間で共有され、乱反射して再強化を受けるという性質を持っている。

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