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「不在」によって語られる価値

資本主義の閉塞は、それが欲望に依存していながら禁欲を志すという矛盾によって進行する。資本主義が禁欲と欲望の間に引き裂かれているという分裂の関係は金銭に対しても同じく両面性を与える。つまり金銭は、交換とコミュニケーションを促進するためのものでありながら、同時に交換とコミュニケーションを断絶するものとして作動し始める。

後期資本主義では、まず物質欲の減退が始まり、物質欲の減退はもっとありふれたもの、自然や愛情、人間同士の関係や人間活動といった社会の基盤となる要素への欲望へと伝染し、やがて仏教的な無欲の世界が到来する。三放世代という欲望喪失の名称が五放世代、七放世代になり、N放世代と全体に波及していく様子は、根本的な他者との断絶が段階的にあらゆる欲望からの追放を実現していくという過程に対応している。



ところで前提として貨幣経済では、金銭が実際的には無価値であるという事実が重要になる。もしも貨幣がそれ自体として何らかの有用性を備えている場合、人は貨幣そのものを退蔵させ、経済的な交換が促進されない。そこで金銭の価値は紙切れや金属片、究極的にはデジタルデータの羅列ようなそれ自体として何の価値も持たない記号に担保され、人はそれが無価値であるゆえに消費する必要に迫られる。いわば金銭は無価値であるということによって交換≒コミュニケーションを促進する機能を担っている。

ところが拝金主義や資本主義リアリズムが蔓延る場合、金銭そのものが価値であるという幻想が共有され、貨幣は使用されないことによってその機能が果たされることになる。金銭そのものが価値であり、商品への欲望こそが幻想であるという関係性の逆転によって、人々は欲望を喪失し、ただ預金残高を増やしていくことが幸福であるという迷妄に囚われる。

この問題は恐らく、資本主義モデルにおける欲望の取り扱いがきわめて個人的なもの―――私がこれを持っていて、私だけがこれを使用でき、他人はアクセスできない―――と取り違えられていたことに起因する。究極的には価値のあるものとは、手に入らないものであり、ものの価値を高める手段はそれを独占し続け、誰にも渡さないことだ。であれば、最終的には何もかも出回らなくなり、誰も買えないという状態が「価値」という概念の目指す地平なのである。

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