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いつから恋愛は不可能になったか<ミグタウについて>

中学生や高校の時分には、よく「学生の本分は勉強だ」などと勉強以外の遊び、なかでも色恋ざたを咎めるようなことを言われ、大人たちに釘を刺されるものだ。そうして、それを真に受けた学生たちは浮ついた青春を繰り広げる周囲を尻目に本を読んだり勉強したりして、今に見ていろ、「将来」こっちのほうが正しかったと分かるんだから、と歯を食いしばる。

ところが大人になり、社会に出てみると、我慢したわりに何も楽しいことなどなく、怒られ、馬鹿にされ、非難され、ようやく「これからも暮らせる」程度の金銭が得られる。もしも何か「これのために頑張れる」と思えること、楽しいことや大切なものがあればそのために「暮らせる」かもしれないが、その楽しいことは「本分ではない」と学生の時代に置いてきたのだった。慌てて失くした青春を取り戻そうと各々のタイミングで努力を始めるが、そこでようやく気付くのは、大人に恋愛能力などもはやないということだ。恋愛に必要な相手を勝手に交換不可能なオンリーワンと断定する能力、ロマンティックな思い込みの能力は大人になるにつれてすり減り、やがて異性は外見、収入、能力、善悪や常識の感覚といった評価軸の集合体になり変わる。そうして将来役に立つと言われて習った三角関数、文明の起こり、複雑な漢字の書き順を忘れた頃に、それらを真面目に習わず、学生の頃に”もっとしておくべきだったこと”をした連中のほうが幸せになっていることに気付かされるのだ。



僕は人間には、恋愛は次第に不可能になると思っている。その理由は2つあって、ひとつ目はポリティカル・コレクトネスやハラスメントなどを中心とした道徳の進化、ふたつ目は自由恋愛競争の激化にある。

まずはひとつ目のハラスメントについて考えてみよう。

ネット上でミーム的に言及されるセクシュアル・ハラスメントについての秀逸な説明を借りれば、好きな人にされて嬉しいことを嫌いな人にされるのがハラスメント、つまり不合格のオスにアプローチされることは既にハラスメントであるということを念頭に置かなければならない。オスがメスにアプローチする場合、自分の性的評価が客観的に相手の”合格”ラインを超えているか判断する必要があり、もしそうでないのにアプローチを試みた場合、拒否される苦痛ばかりか、コミュニティの良識に対する背信の罪、同僚の女性を仕事仲間ではなく性的対象とみなした罪、そして”仕事”という公の場に”恋愛”という”私”を持ち出した罪などを甘受し、場合によっては何らかの形で制裁を受ける必要が出てくる。ついでに言うと、相手を女性であり、しかも異性愛者だと勝手にみなし、男性である自分とのステレオタイプな性愛関係を提案するのはいささか権利意識に欠ける振る舞いだと考えられる。

つまるところポリティカル・コレクトネス的な男女平等論において、男性は間違いなく女性にアプローチすべきではない。なぜなら女性にとってその男性が”合格”であるか否かを判断するのは難しく、自分に性的価値が備わっていたためにたまたま問題視されなかった振る舞いは、普遍的に言えばルールや常識に反している可能性が高いのだ。現時点で問題にならない行為であっても、相手が変わったり、また自分自身の性的価値の衰えによってしだいに見方が変わるということが考えられるわけで、リスク管理の意味でもそういった行為は望ましくない。

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