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"話をかんたんにする人"が求められる理由

何か不愉快な出来事が起こるとまず「誰が悪いのか」という話になる。大きな話だと、ずっと低迷している国では絶対に特定の人種が悪いとかどこの国が悪いんだという論調が台頭してひとつの勢力になったりする。あるいはちょうど今は、たちの悪い伝染病が流行っていてこれが人種差別に繋がっていたりする。もっと身近な話では、システムがうまくいかなかったり同じ問題に直面し続けるととりあえず誰かのせいにしてその人に怒ることで納得しようとする人がいるだろう。たいへんなことや解決不可能な事態が起こっているのにその原因が分からないという状態は非常にモヤモヤする。経済学、科学、政治といった専門的な話題は専門的な人にしか分からないので、ややこしい話はさておいて結局誰を殴ればよいのだ、ということになる。「メロスには政治が分からぬ」といった具合だ。

また、大量殺人事件のように厳密に責任者が存在する場合もその犯人が「いかに異常で」「いかに悪い人間であるか」という印象付けに終始すると、胸の内はスカッとする一方で、それが起こる根本的な原因としての社会問題や複雑なメカニズムの解明は置き去りになる。私たちはトラブルには顔がついていないと納得がいかない。(政治家などはまさにそれを職業にしている、解決できないことを引き受け、できなかった責任を取る。)

そこを行くと、理解不能な自然現象や解決不可能な問題にぶち当たるととりあえず精霊だの悪魔だの妖怪のせいにしていた時代の人たちは賢かったように思える。こういった科学的でない解釈が最終的に惨事に結びついた例も少なからずあるものの、最終的なロジックとして「人間が悪い」ことになっていないのは、なんでも差別や偏見に着地する現代に比べれば納得の仕方として幾分ましなものに思えないだろうか。



で、こういう「本当の話は簡単で…」という、実際にはどうしようもない事情を単純な構造に置き換えるロジックはいつもどの分野でも需要がある。同じ問題に直面し続けている人間にとって「ちゃんと勉強して、筋道を立ててどうしようもないということを知る」ほど面倒臭く無意味なことはない。ならば、どうせ信じるなら「実は簡単な真相」のほうがいいに決まっている。

医療と民間療法の間の領域ではこのビジネスが盛んで、たとえばガンの治し方の種類の豊富さと言ったら枚挙に暇がない。調べてみると草を食べたら治るとかお湯に浸かると治るとかツボを押せば治るとか、とにかく色んな方法で治ることになっていて、だんだん風邪より軽い病気に思えてくる。こういった健康問題に関する疑似科学的な民間療法の紹介は、とうぜん効果を期待できるものではないものの、概して「ああ、こんな単純なことに苦しんでいたんだ」という万事解決したような気分そのものを売っていると言える。かなり良い言い方をすれば希望を売っているのだ。だから、石ころで体をこすると病気が治るとかいった類の、傍から見れば効果の薄そうな療法でも体験者は感謝感激していたりする。複雑なのは、実際にこういう疑似療法がプラシーボ効果をもたらすこともあるし、あるいは病気への疑念そのものが最初から妄想的であったときにちょうどいい薬になる場合も考えられることだ。

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