【礼拝説教】はぐれ者の見る夢【無料で全文読めます】
<はじめに>
有料記事としていますが、全文読めます。
この記事は2022年3月13日@甲山教会の説教です。
2月20日の分区交換講壇の際、三次教会はCovid-19のために礼拝堂に集まらないようにしていたため、再度甲山教会の梅崎須磨子牧師に来ていただくことをお願いし、私は隣の甲山教会(世羅町)に伺いました。
甲山教会の皆さん、ありがとうございました。
いつもの三次教会礼拝堂で話したものではないので、録画は撮っていません。
<聖書>
エフェソの信徒への手紙 6章10〜20節
マルコによる福音書 3章20〜27節
(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。
<説教本文>
悪人の頭であり、悪霊の頭ではない。
忘れないでほしい、かつての祝福「すべて良し」。
もしイエスが、当時悪と言われていた人々を更生させていたのなら、今日の箇所みたいな酷い言い方まではされないでしょうし、むしろ、律法学者といった宗教指導者層から感謝されてもおかしくないと思いますね。彼らからしても、もうちょっと上手く立ち振る舞う方が賢いでしょう。自分がその更生の場面の主役になれなかったとしても、それでも彼らはまだまだ宗教的権力者なんだから…。自分たちが思いもしなかった方法、例えば「罪人が更生する前に赦しの宣言をして、神の国へ招いてしまった」(栗林輝夫「悪人イエス」で少し繊細な学者の例として出される)と見て、それが多少手続き上の問題をもっていたとしても、それでも律法学者たちの地位を脅かすことになるとは考えづらいです。
「妬み」というのはこういうところにも潜んでいるんですよ、というのは確かに真理で、「そういう小さいところから気をつけろよ」と受け取れる話はイエスの語ったことの中にあるようにも思います。
だけど、形式はどうあれ、罪深いとされていた人が悔い改めた、のであれば、そのきっかけになった人間を犯罪者扱いするよりは、「良かったですね、歓迎です。しかしこの更生は例外のようなところがありますので、今後は形式も正当なところを目指していきましょう」と言う具合に、「本当はこっちが王道なんですよ〜、せっかくならここまで目指そうね」と指導するほうが良さそうに思えます。少なくともイエスを殺すよう画策するよりは、リスクは少ないように感じますよ。
イエスは、悪霊の頭に取り憑かれていると言われています。悪霊の力で悪霊を追い出している、つまり、根本的には解決されていないということではないでしょうか。イエスがしたことは、更生させるということではなかったのだ、と言ってもいいでしょう。曲がりなりにも更生に至っていたのなら、「今後は形式もしっかり〜」と言うだけで十分体裁は保てます。律法学者たちや正しいとされた市民からすれば、大枠で言うと「更生」は自分たちの生活に寄せて来ていることであり、それは、「罪人たちを赦してやる」という寛大に見える振る舞い、自らも気分のいい振る舞いをするチャンスです。
イエスはそこまで悪人を「更生」させようとしてはいなかったのだと思います。そういう意味では、蝿の王ベルゼブルというのは、定められた清さを目指していない彼への的確な悪口だったとも言えます(長倉望「分断の壁の向こうから」で深澤奨牧師(佐世保教会)が用いた表現として紹介されている)。
今日の箇所の前にイエスの弟子たちが紹介されているのは印象的です。私は、彼らが元々の仕事を辞めたとは思っていません。漁師の連中は特に、復活の物語で漁をしていますから、少なくとも戻れるツテは残していたのは間違いないことだと思っています。「網を捨てた」というけれど、それはその日片付けを忘れちゃうくらい、あるいは父親に任せたくなるくらいイエスとの話に夢中になっちゃったってことじゃないですかね。漁師もまた、「賤業」と揶揄されたものの一つだったと解説されることもありますし(本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音』)、それを辞めさせちゃ、「更生」させちゃ、別になにも新しくないと思うんですよ。辞められたらお前もいっぱしの人間扱いしてやろう、なんていう社会の風潮があったんじゃないでしょうか。
「人間をとる漁師にしよう」、私はこれを「人間であることを勝ち取るオレたちになろう」という意味で受け取っています。漁師は漁師のままで、人間であることを勝ち取れる、自分の絶望をすくい上げ、その言葉が人の心を掴み、そして自分が人間であると誇ることができる。「うなだれていた頭を天空に挙げ、自分でおのれを卑しめもせず、人からも辱められることも許さずに、昂然と顔を上げること、誇りをもって立ち上がること」。イエスは人々にこれを教えた、と栗林輝夫さんは書いています(「悪人イエス」)。
私も、イエス一行がそういう集団でなかったら、蝿の王とまで言われる筋合いはないと思っています。
彼らがそういう世間から見ると清くないままの集団でいるが約束されている祝福、それが命の根源、生命の息を吹き入れた聖霊であって、その聖霊を冒涜するな!という怒りは、命を侮辱するなという意味です。
むしろ、悔い改めるのは社会の方だ、と食って掛かったのがイエスです。イエスの活動は、「悪人を招き、悔い改めさせる」と聖書に書かれていますが、その内実はきっと、「悪人をそのまま招くことによって、彼らへの神の祝福を示し、彼らを排除していた社会を悔い改めさせる」こと。「悔い改め」にあてはまる対象をキリスト教は長い間見誤ってきたんじゃないでしょうか。
オサジェフォ・ウフル・セイクウの言葉を借りれば、イエスの一行には、腰パンの格好の人、顔にタトゥーを入れている人、クィア(元々「奇妙な」という意味の侮蔑語でしたが、枠組みに囚われないという意味で肯定的に使われるようになった語、多くの場合性的少数者を指す)の人がいるはずです。神は彼らの中で働いているし、セイクウが言ったようにそのまま「神は腰パンの格好をして、神は顔にタトゥーを入れており、神はクィアである」と繰り返してもいい(「ファーガソンの前線より」)。
はぐれ者イエスの見る夢、それは、はぐれ者たちと言われていた、更にキツめに言ってみれば「人扱いされなかった」者たちが世界の中心に立つ、そんな新たなる世界。マラナ・タ、すべてのつくられたものへの祝福を、いま新たなる言葉で語れ!神の平和が実現するときまで!
<参考資料>
栗林輝夫「悪人イエス」、『人間イエスをめぐって』、日本キリスト教団出版局。
長倉望「分断の壁の向こうから」、『イースターへの旅路 新版・教会暦による説教集』、キリスト新聞社。
本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音』、新世社。
オサジェフォ・ウフル・セイクウ「ファーガソンの前線より」、『ヒップホップ・アナムネーシス』、新教出版社。
「人間であることを勝ち取るオレたちになろう」というラインの初出は1月19日の説教です。
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