見出し画像

2022年5月4日(水)祈祷会のおはなし(八幡浜教会・三瓶教会合同祈祷会)

0.この投稿について

2022年5月4日の八幡浜教会・三瓶教会合同の祈祷会でおはなしを担当しました。この合同祈祷会は現八幡浜教会主任担任教師である森分信基さんが、私の現任地である三瓶教会代務者もされていたときに始まったものです。私が赴任してからも合同で継続するということになっています。基本的には森分さんが聖書解説を担当してくださるのですが、今回は私が担当ということになりました。本文に書いている通り八幡浜教会の方々の前でお話しすること自体が初めてでしたので、自己紹介を兼ねた内容になりました。自分自身の宣教観も正直に話していますので、記録のためを含めてここで公開しておこうと思います。トップの画像は本文中でお話ししているポナペ・ワークキャンプのときのものです。

読んだ聖書は以下です。

コリントの信徒への手紙二 11:22~30

(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。


わたしの信仰ルーツ(本文)

1.はじめに(自分について話すということについて)

自分のことをただ話しただけ…。でもそれが神の国について話していることになり、また神の国のことであると聞ける共同体というのが教会の目指すところなのかもしれないと思うようになってきました。
パウロも今日読んだ箇所では自分の足跡について話しています。それと、私はイエスのしたことが周縁に追いやられた民衆のエンパワメント(自信をつけさせること)なのだと考えているのですが、そうだとしたら自分について自信を持って語るということへ繋がりが何もないようではちぐはぐな印象があります。また、「この世はみな神の世界」なのであれば、例えば「今日はこんな花を見た」という子どもたちの会話がイエスの「野の花を見よ」と呼応するもの、重なり合うものと言えなくてはならないとも思います。というわけで、特に八幡浜教会のみなさんの前で何かをお話しするのは初めてですし、ひとつのサンプルとして、自己紹介を兼ねて自分の信仰ルーツについて話してみようと思います。
 
ひとまず簡単には以下のようになります。
 
1988年 北海道名寄市生まれ
 ○両親はキリスト教徒で名寄教会へ通う
 ○実家は道北センターの向かい(父は道北センター福祉会職員)
2004年 敬和学園高等学校入学(新潟市へ)
 ○寮生活(三瓶教会元牧師のSさんと同室だったことも)
 ○24時間学校敷地内にいるので寝ても覚めても合唱部活動
2007年 関西学院大学神学部入学(西宮市へ)
 ○ほぼ24時間学校の敷地内で。寮住み・アルバイトも構内
(用務作業、宴会場スタッフ)
 ○ポナペ・ワークキャンプ(後述)初参加
2013年 三次教会主任担任教師に就任(三次市へ)
 ○日曜日以外の充実・公共性が教会にとってのテーマと思うようになる
2022年 三瓶教会主任担任教師/三瓶幼稚園職員(園長)に就任(宇和島市へ)

2.わたしの信仰ルーツを記録した本とテーマワード

①中村敏『日本プロテスタント海外宣教史』(新教出版社)、荒川義治『遣わされた人々の足跡』(ポナペ支援会の中で配られた印刷物)

『日本プロテスタント海外宣教使』は私の父親の名前が(ほんの少しですが)出てくる、書店等に流通している唯一の本だと思います。父親は、ミクロネシア連邦・ポンペイ(ポナペ)島に日本基督教団から派遣されていた荒川義治・荒川和子宣教師夫妻のヘルパーとして(教団からは信徒宣教師という扱いにしてもらい)合計約3年間、養豚などの農業指導をしていました。ちなみに父は農村伝道神学校に一度入ったものの、学生闘争の関係で中退しています。宣教師には通常本国で支援会が組織されますが、この「ポナペ支援会」は、「ポナペ・ワークキャンプ」として、日本から短期(10日~1ヶ月程度)ヘルパー隊が何度も派遣されたのが特徴で、これが荒川宣教師の任期満了後も(それこそ中断を挟みながらコロナ直前まで)続けられましたので、私も複数回参加経験があります。主に学校寮の屋根のトタン交換や、その保護ペンキ塗りなど、屋根系の作業をしました。
また、その本で父と同じページに名前があるマレーシア・サラワクに派遣された荒川純太郎宣教師は、私が三次に赴任した当時、隣の甲山教会の牧師で、「共生庵」という自給を視野に入れた研修ハウスのような活動をしていました。1970年代に東南アジア・オセアニア方面の在外教師(宣教師)だった「二組のアラカワ」の(ついでに言えば父親も含めての(※))「宣教」に影響を受けていると思います。

(※)ただし、父親は2009年(私が20歳のとき)に帰天していますので、直接は一切聞いていません。荒川義治宣教師の手記『遣わされた人々の足跡』を読んだり、彼からあるいはパートナーの荒川和子さんから聞いたり…という感じです。

 

②フロイド・ハウレット『教会教を越えて』(大倉一郎訳、日本キリスト教団出版局)

私の両親はキリスト教徒でしたが、共にどちらかと言えば「厳格」と形容できる教会の出身でした。ただし、住み着いた名寄には日本基督教団の教会がひとつしかなく、そしてその名寄教会や道北地区はおそらく「厳格」とは真逆の感覚の共同体でした。小学校1年生くらいのころ、地区の何かの会議の際、別室の子ども部屋で退屈していたことがあるのですが、一緒にいた何人かのボーイズでパンツ一丁(最年少幼稚園年少くらいだったSくんは全裸)になって、隊列を組み会議場に侵入、黙って会場を一周して子ども部屋に戻るという、よく分からない行動に出ましたが、その行進メンバーが誰も欠けずに子ども部屋に戻れました。つまり途中で親たちに取り押さえられなかったということです。まぁ言ってみればかなり自由になにもかもさせてもらったわけです。
自由にさせてもらったというのとどれくらい関係があるかわかりませんが、北海教区道北地区には『教会教を越えて』というテーマワードが眠っていました。1950年代から約30年間、カナダ合同教会から名寄へ派遣されたフロイド&ドリーン・ハウレット宣教師は、道北センター(道北クリスチャンセンター)を設置し、周辺の教会活動を支え、農民のネットワークを構築するような働きを続けました。
私が生まれた頃には後任の、同じくカナダ合同教会から派遣されたロバート&圭子・ウィットマー宣教師に働きが引き継がれていました。『教会教を越えて』はフロイド・ハウレット宣教師がカナダ帰国後、自叙伝のような形で出版された本で、邦訳がつい最近北海教区の方々の働きを中心として完成したというものです。 


③テーマワード

というわけで、私の信仰ルーツとなったテーマワードを挙げてみると、以下のようになると思います。これはこのまま、自分の宣教観にもかなり影響をもたらしているように思います。

北海教区(道北地区)、カナダ合同教会、二組のアラカワ、農村、公共、地域の生活向上と神の正義、「教会教を越える」


3.ポンペイ(ポナペ)島➔オア・ディベロップメント・プロジェクト

①両親の出会いはポナペ・ワークキャンプ

血縁的なつながりはないものの、それでもポンペイ島にルーツがあると言えるのは、この島が両親の出会ったところだということです。父が信徒宣教師の登録をもらって長期ボランティアで働いていたのは先述しましたが、母は短期ボランティアであるワークキャンプに参加した経験があり、そこで父を気に入ったようです。ちょうど父の任期も終わりに近く、帰国後の検疫で引っかかって入院した父を母が見舞ったというのが付き合いのはじまりだったようで、もっと言うと病院の場所を伝え、見舞うように頼んだのは荒川和子さんだったとのこと(※)。 

(※)ちなみに母は2000年に帰天しているので、これも荒川夫妻から聞きました。


②オア・ディベロップメント・プロジェクト

荒川義治・荒川和子夫妻は宣教師としてポンペイ島、ポンペイ合同教会に15年間ほども派遣されたわけですが、本人が言うに、主日礼拝の説教はかなり少ない回数しかしなかったそうです。主な働きは、オア・ディベロップメント・プロジェクトと名付けられた地域の生活向上のための農業開発と学校設立計画のヘルパーでした。元々、日本も含め数々の国に支配されてきた地域で、島のほとんどがジャングルの、斜面の多い地形でしたので、自力で安定的な生産を得られる農作物があまりなく、輸入に頼らざるをえず貧しい国となっていました。そこで、胡椒や養豚などを指導していきました。豚は島民を支える主な肉、胡椒は一度ある航空会社の機内食の材料に選出されるほどになったそうです。また、学校は戦前中の宣教師滞在のころにあった学校を再建し、農業科と普通科のハイスクールとなり、島民の教育に関わっています。


4.北海道(北海教区)名寄市(道北地区)➔道北センター

①『教会教を越えて』で自分の足跡についての納得感

この本を読んだ友だちから、「君がどんな環境に身を置いて、どのように育ってきたか、今の君をつくったルーツがよくわかったよ」と言われたことがあります。確かに読んでみると、教会の組織体拡大よりも公共の共通善の伝播を使命としている点や、教会籍にこだわらず協力を目指す点などは、自分にも少し自覚があります。
そういう私にとって、この合同祈祷会の継続は、「ありがたすぎる提案」でした。こういった動きは、日本基督教団にとってもっとスタンダードなものにしていく必要があると思います。


②「伝道」(種まき)への「土作り」

共通善の伝播は、伝道の前提になる「土作り」と言えると思います。例えば、いくら熱心に人を教会に誘ったとしても、その教会で、特に私のような比較的若い世代に入る男(しかも私は「教師」という権力を持たされたものです!)が座り、女性がお茶を持ってくる情景は、それだけで私世代の人々の一部にとってはかなり絶望的なショックを与えるものになりえます。こういう性別役割分業制によって女性が従属的な扱いを受けていると抗議する声があって久しいです(私がせめて教会で皿を洗いたいというのは、こういうところ含みなんです)。全員が同じ感想を持つわけではないでしょうが、(嫌だと思う人が)10%だとしても、家族、友だち合わせて10人の知り合いが居ない人はほとんど居ないと思いますし、そのまた友だち…と考慮していったなら…、特に「信仰の継承」と言って若年世代に教会を担っていってもらいたいと願うなら、どうでしょうか。
共通善でもって社会をリードする共同体でなければ、そもそも「伝道」するスタート地点にも立っていないということになります。「愛がなければ…」とパウロは書き残しましたが、この愛とは神の愛を基にしたものですから、共通善と言い換えられ、平和や正義、自由、希望といった要素を含むのではないでしょうか。


5.宣教(ミッション)~宣教師ではないが“移民”牧師であること

①宣教師の伝説(イング、アルメイダ)、もっと古い教会指導者の実践

宣教とは、キリスト教教義を広げることよりもずっと優先的に、共通善の伝播や地域の生活向上を目指すことを強調する…というのが私の信仰ルーツから得たものです。二組のアラカワにせよ、道北センターにせよ、そういった視野を持った宣教を展開してきました。この働きが比較的少数派に留まっているように感じるのが残念なところです。
実際、日本で活動した宣教師もそれぞれの時代に地域の生活向上のために働いています。例えば、明治期のプロテスタント伝道で言えば、弘前教会のジョン・イングのりんごの紹介という伝説的な話があります。もっと古い時代の安土桃山期の大分では、ルイス・デ・アルメイダが児童養護施設や西洋式病院の設立をしています(今も大分市医師会の病院はアルメイダの名前を冠しています)。
古代にも、教会指導者は救貧院を設立し、「街」と形容されるような規模での事業を展開していました。残されている礼拝説教もそこで行われている「公共」的な働きを強く意識したものです。

 

②“移民”牧師という自己理解

私は宣教師ではありませんが、「“移民”牧師」という意識を持つことで、少し近い視野を持てるのではないかと期待しています。宣教師たちは本国の知恵を活かして活動を展開し、派遣された地域にそれを溶け込ませ、共通善の探求や地域の生活向上を志向してきました。また、この意識が移民(日本の他地域から・外国から問わず)を迎え入れられる地域(教会)の確立にも多少は影響を持つのではないかと思います。
現在は大学時代の用務作業アルバイトやポナペ・ワークキャンプでの経験を活かして三瓶幼稚園の設備修繕などをするくらいでいっぱいいっぱいですが、特に地方教会に派遣されたものとして、過疎地域に何を新しくつくることができるかという願いだけは持ち続けたいと思っています。

 

6.教会は地方を再生できるか

長々と話しましたが、この視野を持って宣教をしたいと考えています。知恵を出し合っていかないとなりませんから、こういったトピックの話し合いが気軽にできる共同体でありたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?