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【礼拝説教】「オレと行かないか?」【無料で全文読めます】

<はじめに>

柳川真太朗くん(Twitternote)の提案をもらって(彼の真似をして)、これから主日礼拝説教をnoteで公開していこうと思います。

有料記事としていますが、全文読めます。

この記事は、2022年1月16日@三次教会の説教です。

<聖書>

エレミヤ書1章4〜10節
マルコによる福音書1章14〜20節
※聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。


<説教本文>「オレと行かないか?」

惨めさを分け合う人びとの物語。これが世界を覆す、もう待たない。アイツらが指名されてから2000年近く、だけどこの世界でいないことにされた人びとが後をたたない。むしろ教会が、時にある人びとをいないことにしてきたんだろうから、おっかない。

ある人々は天国、ある人々は地獄。これだってそうですよ。地獄にいるとされた人びとを見下すしか天国に入る方法はない。地獄に残された人がありながら、喜べる?それを地獄と呼ぶんじゃないんですか?ある人が教会の椅子に座り、教会の外に待たせている御者たちの肌の色を見下し…。そこで聞く話は分けることが神の御心って内容であり…。そういう地獄が教会を舞台に再生産されてきたということを1月17日のマーティン・ルーサー・キング記念日の前に確認しておきたいです。

あるいは、同性愛者は天国にいないとも語ってしまった教会は、また、他宗教徒は神の救いを受けられないと言ってきた教会は、神の国を遠ざけていたのであり、そこに集うキリスト教徒の慈愛をも奪ってきました。天国に入るために他者を見下すことを要求しているんだから、そうでしょう。神の国にいないものを作り出すし、そこに集う人びとの人間性も奪う。そういう教会の時代が、世界の暴君として振る舞っていた教会の時代が、長く続いたことを知っておかなくてはなりません。教会によって、人並み以下とレッテルを貼られた人びとがいたのです。つまり、いないことにされていた人びとがいたのです。いや、今もそれは続いている。救われる者と救われない者に分けて考えている教会を名乗る集団はあるし、性的少数者への謝罪どころか、彼らの名誉は傷つけられる事例は度々起こってる。

ローマ帝国という「世界」の端。属州ユダヤ、そのまた隅っこ、見下された地域であったガリラヤの漁師たち。彼らはいないことにされていた人びとを代表しているのかなと思わされます。そこに同じく貧しい青年が声をかける。だからこれは、惨めさを分け合う人びとの物語です。人以下と見下されるような環境に生まれた人びとが、人間であることを勝ち取るために立ちあがる、つまり世界を覆す。そこで語られる「人間をとる漁師にしてあげよう」の意味は…こういうことだったのかもしれない。「一緒に、人間であることを勝ち取るオレたちになろうぜ」。

人間扱いされなかった人びとを見つけ出すのが、人間をとる漁師。その人びとの声をすくい上げるのが、人間をとる漁師。そうして、世界にはびこる、ある人々を人以下とするレッテルを取り払うのが、人間をとる漁師。社会の底辺層に立たせられた人びとのひとりであったイエスとその仲間たちの境遇を思えば、人間をとる漁師であるというのは、彼らが自ら「人間であることを勝ち取る」という意味でもあり、自らの絶望をすくい上げて世界に見せるということでもあります。

もし「人間をとる」が「人を配下にする」という意味だったら、結局同じような支配の構造は続いてしまうんです。いや実際教会はそんな感じになってきてしまったわけですけれど。支配者と被支配者の立場を入れ替えるということではなく、支配のシステム自体を壊す!エレミヤが神とともに立ち上がる決心をしたときの神の呼びかけに、このような意味を加えて考えてみたいです。エレミヤは、「律法というものは、搾取されているものを搾取するものの手から救い出すためのものなんだ」という神の言葉を語っていたのですから。

イエスはきっと、一緒に立ち上がろうと漁師たちに言ったのでしょう。人間であることを勝ち取るオレたちになろう。それは、漁師である彼らの存在を肯定するということが一緒になっていなくてはならない、と私は思います。船を残して行ったということを、これまでの生き方を捨てたと思わないでほしいです。だって、イエスの死後、彼らはまた漁をしています。これまでの自分を肯定し、そしてその哀しみを分け合う仲間ができた。それは、同じ生き方でありながら、同じ湖の風景でありながら、同じ通勤の道でありながら、全く違う景色を見せてくるものだろうと思います。そういうことを今日の聖書は言っているんだろうと、私は受け止めています。人間であることを勝ち取るための肯定の言葉、それが「人間をとる漁師」。賤業と時に解説されることもある漁師ですが、漁師が漁師のままで世界を変えるというメッセージが、まことの救いじゃないですか!漁師をやめないとイエスの働きに加われないとするのでは、イエスがそのいのちをかけて語り歩いたメッセージの逆なんじゃないかなと思います。

人間であることを勝ち取るオレたちになろう。それが他の同じような境遇の人びとの心を掴み、そしてみんなで上がっていく、みんなで人間であることを勝ち取るという約束の地への一歩になるのです。そういう「人間をとる漁師」。

俺の人生の推しは俺自身。そこで聞こえるイエスのコーリング。イエスの生き様が私たちの辛さの中にも宿り、その慈愛が世界を覆い、世界を変える。みんなで上がろう。イエスはそう言って歩きました。だから僕らも皆、神の子。

教会はいつもそうだった、内輪だけの「救い」の村に逃げちゃう
教会はいつもそう、何も思わず「救われた私たち」と言えちゃう
教会はいつもそう、礼拝はいつもそう、社会の酷さと変わんないよ
それがイエスの口癖 確かに疲れそう
でも、まずは僕ら自身が変わろうよ、そして世界の常識を変えるところまで上がろうよ。
難しいって知ってるよ だからそれまで俺も戦う
後で一緒に言われようぜ お前らほんまバカちゃう?

(この部分は、Moment Joon "TENO HIRA"を元にしました)


そう、このためにこの幻を、今日また語ります。
私には夢がある。私には夢がある。
いつの日か、谷は全て身を起こし、山と丘は身を低くし、険しい道は平らに、狭い道は広い谷となり、神の栄光が世界のすべてを照らし、そして、全ての人びとが、共にその生命を喜べる日が来るという夢である。
すべての神の子どもたちが共に、手を合わせるその日を夢見ています。

そう全ての神の子どもたちが…、同性愛者も異性愛者も、うちなんちゅもアイヌも、日本国籍者もそうでない者も、キリスト教徒もムスリムも、仏教徒もアミニズムも、無神論者も…互いに「見せて手のひら」と歌うのです。

イエスとともに行こう。手をつなごう。あなたはあなたのままで。神の前に堂々と立ち、脅かすものはなにもない。そうして僕らは世界を変えるんだ。

ついに自由だ、ついに自由だ!全能の神に感謝しよう。ついに我々は自由になったのだ。

(この部分はオーティス・モス3世「十字架とリンチの木 ―アマド・オーブリーへのレクイエム」(翻訳と解説が『Ministry』49号に掲載)を元にしています)



<説教動画>

もしよければ音声つきでもどうぞ。


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