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【礼拝説教】「恵みが足らねぇよ!」【無料で全文読めます】

<はじめに>

有料記事としていますが、全文読めます。

この記事は、2022年1月23日@三次教会の説教です。

<聖書>

申命記30章11〜15節
マルコによる福音書1章21~28節
※聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。

<説教本文>「恵みが足らねぇよ!」

祝福か、呪いか。この二つの道があると私たちは多くの場面で考えてきました。今日の旧約書だけじゃなく、他の箇所にも、二つの道を提示して片方を価値あるものとする箇所はあるし、最初期の教理書とでも言いますか、洗礼志願者へのテキストと思われる「使徒たちの遺訓」という文書(ディダケーと呼ばれます)の書き出しは、「二つの道がある」です。こういう考え方は、おそらく私たちの中にずっとあって、できれば神に喜ばれる生き方を、という望み方をずっとキリスト教徒たちはしてきたのでしょうし、それ自体は、古代の捨て子の習慣に同調しないとか、疫病が流行った時に助け合う…とか、近代以降の病院設立、教育活動を代表的なものとして、地上に良いものをもたらしてきた部分もあるのだろうと思います。しかし、ここからの派生で、キリスト教が、地上の悲しさを増やしてきた部分も…実はあるのだろうと思わされます。

祝福と呪い。この二つの道。この表と裏がそれぞれどう当てはまるのか。ある人物の選択が、その人物にとっての祝福か呪いかということを語っているのか。つまり、ある人物の選択が、その人物にとっての天国か地獄かの選択となるのか。今日の聖書でも、神への信仰によって天国か地獄かになる、という話なのかとなんとなく受け取ってしまっている自分がいます。きっとこれがさっき言ったような、祝福か呪いかを多くの場面で考えてきたことの積み重ねから、キリスト教内外に行き渡っている感覚なのかもしれません。しかし、神に対する信仰ということで言えば、すべての人がキリスト教徒という自覚をもって生きているのではないですし、私たちの信仰作法をすべての人が実践しているわけではない状況ですから、この話で言えば、現状、「呪いの道」を行く人が残り…ということになるわけです。その状態で、「祝福の道」は本当に祝福と言えるのでしょうか。

「天国か地獄か」という「表と裏」を考えている人たちに対する素朴な疑問なんですが…、なんで今の状況で「神に感謝」って言えるんでしょう。それは、「こいつのような徴税人でなくて感謝します」とどこか、言ってしまっていることになっているのでは?

それはつまり、神に呪われたというラベルをある人びとに貼ってきたことによって、キリスト教徒は自らを祝福と結びつけてきたということ?私たちの祝福には呪いが必要ということ?なんて呪われた祝福!エグみしか残らない中途半端な恵み!

今日の福音書で、「かまわないでくれ」という人の言葉が聞かれたけれど、これは誰の言葉だったんでしょう。誰の思いだったんでしょう。周囲の人びとは、このイエスに癒やされた人に依存していたと言えるかもしれません。それまで彼が、異常者のレッテルを引き受けさせられてきて、それで周囲は正常という自己理解を得るのです。そうであれば、彼にコレを言わせたのは、周囲の、彼が異常者と言われ続けるのを求める目線なのです。

時々あるのです。集団にとって理想的な少数者であるということで、存在価値を認められるという事例が。たとえば、「同性愛は罪」という、差別的な言説を振りまいてはばからない教会に属し、自分の持つ愛情は罪であると自己卑下しつづけている同性愛者。自分は間違い・異常者であると自分にレッテルを貼ることで、存在を認められるのです。そしてその存在が、その集団の多くの構成員にとって自分が正常であると確認するためのものになり、また、自分たちが「少数者を受け入れてあげている寛大な者である」と思い込むためのものになるのです。

しかしそれは、そのような少数者が呪いを引き受けさせられており、彼らは永遠に辺境の者であるということを意味します。時にこのような形は他の少数者、女性たちや子どもたちに及ぶものとなる、という場面もあります。従属的な立場を引き受けることで、その場にいることが許可される。あるいは、ステレオタイプの外国人を演じてその場をやり過ごす移民者たち。「かまわないでくれ、レッテルは貼られても、ここで私が我慢すればやり過ごせるのだから」。なんて悲しいことを思わせてきたんでしょうか。社会は、また教会は。多数者が得る祝福らしきものの代償としての、少数者に対する呪いはどれだけ大きかったことでしょうか。祝福の道を行っているようでいて、そこに呪いを背負わされた人びとが残り…。これって本当に祝福なんですか?

恵みがみんなに行き渡ってない。恵みがぜんぜん、足らねぇって!!

イエスは言う「黙れ、出ていけ」。イエスが見ていたのはきっと、「かまわないでくれ」と言った人の自己卑下。そして周囲の思い上がりです。滅びを、地獄を必要とする救いは本当に救いなんだろうか?

祝福と呪い、二つの道。これは、個々人がどちらかを選ばされるというものではなく、みんなで、ただその生命を祝福し合える道を行けということです。取り残される人が一人でもあったなら、それは呪いの論理を借りているという時点で呪いの道。使徒たちの遺訓、「ディダケー」はその意味で実に、部分的に…ではありますが、正確なことを言い表しています。「あなたを呪う人を祝福せよ」「あなたたちを憎む人を愛せ、そうすれば敵を持たなくなる」といのちの道を説明します。すべての人が祝福されるということを諦めてはならない。当然、誰かが死の道を行かされるままで神は善しとしない。そういう公正を地上に求めるということなのです。同じく二つの道を語った預言者、エレミヤは同じ意味で正しいです。命の道を的確に彼は言い表しました。「搾取されている人を、虐げる者の手から救い出せ」。誰にも呪いを背負わせない祝福の道を行こう。それが、神の創造、「神はすべてのいのちを創られた」に期待することであり、神とともに歩むということだ。神の恵みはそう遠いものと考えるなという今日の聖書は正しいです。だから今日私はこう言わなくてはならないのだ。人間扱いされなかった人が、君の近くにいる、あるいは君自身かもしれないが…。しかし、人間扱いされなかった人びとが救いの中心地だ!

私は、新しい天と地が、訪れるのを見た。聖書、黙示録が語るのは恐ろしい生き物たちがうごめく怖い情景だと思っていた。しかし、呪いのレッテルを貼られていた人びとが、人間扱いされなかった人びとが、ただ祝福を受け、人間であることを回復している優しい世界であった。この世界であれば、オレも立ち上がれると感じた。みんなで、祝福を受けよう。漏れるものは誰もいないから。端っこでおこぼれなんてつまらないこと言わないでくれよ、みんな。神は、君が中心地だ、と宣言しているのだから!!誰もこの中心地から脅かされることはない。そう、脅かすものはなにもない。それぞれのアイデンティティを殺す呪いの剣(つるぎ)はうちかえられ、畑に隠されたそれぞれの良きものを掘り起こす鋤(すき)となった。

神がこう宣言するのを皆で聞こう、「君が恵みの中心地だ!」

<参考資料>

佐竹明訳「十二使徒の教訓」、荒井献編『使徒教父文書』、講談社学芸文庫、1998年。

<説教動画>

もしよければ音声付きでもどうぞ。


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