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【礼拝説教】イエスさん、暴れすぎィ!【無料で全文読めます】

<はじめに>

有料記事としていますが、全文読めます。

この記事は2022年3月20日@三次教会の説教です。


<聖書・礼拝で歌った賛美歌>

イザヤ書48章1〜18節
マルコによる福音書8章27〜33節

306「あなたもそこにいたのか」(1〜4節)
410「昇れよ、義の太陽」
364「いのちと愛に満つ」

(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。

(※)賛美歌集名が書かれていないものは全て『讃美歌21』収録番号です。この他、礼拝のはじめとおわりに「頌栄」を歌っています。


<説教本文>

「イエスだけが救い主」と歴代の教会は歌い継いでいるのですが、それに対して暴れるような抵抗をしているんじゃないでしょうか。今日のイエスは。見出しというものがつけられている聖書には、今日の箇所には大体「ペトロの信仰告白」というような一文があって、「信仰告白」と聞くとそれは聖なるもので正しいものという印象がどうしてもつきます。それで、ペトロは良いことを言ったという感覚を持っているかもしれません。しかし、イエスは「それはもう言うな」と戒めた。「叱りつけた」という翻訳もあります。正解だけど、叱りつけた…それはもうパワハラと何が違うんでしょうか。


パワハラ上司だが救い主、と飲み込むのか。いや…。待ってください。信仰告白が正しいとは限らないです。祈りの言葉はある種すべて信仰告白とも取れるものですが、教会がしてきた祈りの言葉の中にひどく暴力的なものもありました。命の価値に差をつけるような言葉にアーメン、同意しますと後押しの言葉を重ねてきました。宣教地の文化は破壊することが良いと勘違いしてきました。「元々のキリスト教圏」とある時点で引かれた境界線、それも結構後のある時点で引かれた境界線、この文化圏内にはいなかった人々、そのような人々のルーツを持つ人々は、その命の価値が落ちると見てきました。かなり長い時間です。命の価値に差をつける、数ある病の蔓延を止めることができないままです。その一つが、「Covid-1619」。黒人の体が動くだけで自分に危険が及ぶとの幻覚をもたらす(オーティス・モス三世の表現)。人種差別ウイルスを止めることができないままです。パレスチナを生きた青年の黒い肌が木の十字架につけられたのと同じく、数多くの黒い「奇妙な果実」から流れる赤い血がこの地上を染めてきました。「あなたもそこにいたのか」と歌う時、このことを思い起こさなくてはなりません。少なくとも、このような辛いできごとを見ても、教会が全会一致でこれを止めるよう動いてこなかった時代があることは事実です。「深い罪」の内実は、これを含んでいないとなりません。イエスの十字架を、不当すぎる暴力を繰り返してきたことが深い罪です。


きっと違ったんですよ。今日の箇所の、このペトロの答え。しかもそれが人の命の価値という根本に関わるところで。イエスだけを特別に扱う時、イエスが目を注いだ貧しい人々を見失っているんじゃないでしょうか。イエスは自分だけが持ち上げられるのを嫌って、暴れるような抵抗を見せているんじゃないでしょうか。


おいおい、待てよ。一部の人間だけを特別扱いするんじゃねぇよ!
そういう特別に仕立てられた名誉、要らねぇんよ。
「このレントにイエス・キリストの苦しみを覚えよ?」
え、オレのことだけを?だったらやめておくれよ。


イエスはもしかしたら教会に対しても、こうやって怒っているかもしれません。私たちは分かっているつもりで、全然分かっていなかったんじゃないだろうか。「イエスのみが救い主、イエスをほめたたえます」っていう言葉、これ、私たちが繰り返してきた言葉だけど、イエスさんからしたら、「ありがた迷惑だよ」って反応かもしれません。時に「イエスが救ってくれるから」という言葉が地上の不正義を見ないふりするためのもの、そして抵抗の口封じとして扱われてきたのですから、ありがたい要素すらない、純粋に迷惑という表現のほうが適切なくらいかもしれません。


イエスが叱りつけたというのは、イエスだけを持ち上げようとするペトロの中にある、イエス持ち上げの副作用とでも言うような命に差をつける思考に対してであった…。そうであれば、暴れるような怒り方をするのも、少しわかります。少なくとも正解を言わせて、でも黙っとけ!みたいな意地悪な仕打ちでないとわかります。


確かに、イエスだけが苦しみを受ける世界ではなかったです。当時から。「メシアである君が、救い主である君が、苦しみを受けて殺されるなんてことあっていいわけないだろ?」ペトロはそう思ったのかもしれません。でもイエスは、自分だけが救い主といつ言ったんでしょうか。むしろ、貧しい人々も神の子どもたちだ、と言って歩いてまわったんじゃないでしょうか。そして、宗教指導者から、彼らが規定した世界から、排斥を受けている人々はその時すでに居た。その人たちとつるむのがイエスの宣教だったんじゃないでしょうか。「苦しみを現在うけている神の子どもたちがいて、オレもアイツらと同じ地平で生きる。そこで命が輝くのを一緒に見てほしい。神の祝福が全てに注がれること、神の公正を地上に実現することを見せてやろうぜ」、そういうイエスの宣言。そういう宣言に対して、「君は救い主なんだから、それらしく振る舞ってくれ、苦しみを受けるようなことがあってはならない、崇高に振る舞ってくれ」。そんな諌め方だったんじゃないでしょうか。

だとしたら、「おい、さっきもオレを特別扱いするなって言ったよな」。そうなるのもちょっと頷けます。


特定の人間や集団を特別扱いするのが、人間のすること。確かにそうです。忘れないようにしよう。忘れないようにしよう。

戦火の中に神の子どもたちがいます。紛争地域に神の子どもたちがいます。ウクライナのことだけでなく、イエメンやソマリア、パレスチナを始め、長く紛争が続く地域のことを忘れないように。世界各地の警察や軍隊の暴力的な仕打ちを忘れないように。不当な支配的な社会構造から目を離さないように。肌の色だけじゃない。性別、性自認や性指向というところでも。信仰のことでも。イエスだけが救い主と言う時、神の子どもたちを忘れていないか立ち止まろう。イエスだけが救い主と言うことの内実は、イエスの貧しい人々の1人としての生き様にあるのであり、この地上と断絶された天国という別世界に、彼のためだけに用意されたきらびやかな聖座があるというのではない。これを忘れないようにしよう。


忘れないようにしよう。イエスのように派手に暴れてもいいけど、難しければ、せめて、暴力的支配的社会構造に対して忘れてないぞ、見ているぞ、容認していないぞという意思表示を。忘れないようにしよう。それが難しくても、黙って投票を。忘れないようにしよう。それすらも厳しい状況でも、祈りを。忘れないようにしよう。そうすればきっと、世界は変わるでしょう。「その日」が来るのを早めることができるでしょう。


想像しよう、「新しい天と地が訪れる世界を見よ」そう神が宣言し、驚くべき御業が成し遂げられる未来を。We Want to Meet My JESUS!(黒人霊歌Soon Ah Will Be Doneより。元歌詞はI want〜)だけど、天国に行くってことじゃない、地上に神の国を。貧しい人々とともに生きる世界を。

イエスさん、暴れすぎでもいいよ。どうかすぐに来てください。地上に、そして僕らの内に。


<参考資料>

オーティス・モス三世「十字架とリンチの木 ーアマド・オーブリーへのレクイエム」(翻訳と解説が『Ministry』49号に掲載)

滝澤武人『マルコの世界』、日本キリスト教団出版局


<説教動画>

もしよければ音声つきでもどうぞ。


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