【礼拝説教】いつの間にか恵みに包まれてたって話さ【無料で全文読めます】
<はじめに>
有料記事としていますが、全文読めます。
この記事は2022年2月6日@三次教会の説教です。
<聖書>
ペトロの手紙一 1章22〜25節
マルコによる福音書4章26〜32節
(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。
<説教本文>
僕ら牧師は「説明しすぎ」なのかもしれません。まず「説教」という名前がイマイチだし、名前といえば「教会」もだ、というのはいつかのキリスト新聞のコラム、キョウカイブラックの指摘ですが、教えを説明する、教える会…。この名前にどこか引っ張られているところもあって、教会の礼拝説教は「説明しすぎ」なのかもしれません。こうなってくると、「分かりやすい」というのがそれほど良いものなのか、少し考えもの…です。
もしかすると、「分かりやすい」ようにするために「説明しすぎ」…というのが根腐れの原因ではないでしょうか。今日の福音書に種の話が出てきます。また4章の前半も植物の成長の話です。栄養過多、あるいは水のやりすぎ…「根腐れ」というのは窒息状態のようなものを起こすそうですね。
日本の教会の多くの説教がこういう説明過多になって、それで窒息状態に…。平野克己さんの説教学に関する講座DVDがミニストリーという雑誌付録につけられたのは2015年。最近、YouTubeにて公開され、誰でも見られるようになりました。さて、この話を始めると今日の私が説明過多になりそうな気配がありますが…。まぁ私はいつも説明をかなり少なくする(しすぎ?)と自覚しているので、たまには良いでしょう。自然界でも土砂降りが丸一日続くこともあるわけですし…。
日本の説教が窒息状態というのは、平野さんの指摘です。その原因として、説教の語り口の固定化がある、というわけです。特に締めくくり方は顕著。平野さんの肌感覚というところと思いますが、80%くらいはコレになっていないか、と言っています。こういうかたちです。
どうでしょうか。私はこの話を聞いてから、かなり意図的にこのようなおわり方を避けるようになりましたので、そうでもないと思ってもらえるかもしれませんが…。
このパターンの手にかかれば、あの「私には夢がある」ですら窒息させられるであろう、と平野さんは続けます。彼も講座の中で試していたのですが、ここでも再現してみましょう。「私には夢がある」、翻訳はこういう感じです。
さて、これが…
どう、でしょうか?
説明調になっても、意味することが真反対、になるわけではありません。しかし、説明がくどいような気は、かなりします。印象はかなり変わると思います。説明に比重を置きすぎていて、イメージをふくらませる力が失われ…、つまり根腐れ…。
今日の福音書の少し前には、怖いことが書いてあります。弟子と何人かの人びとには特別な説明があり、それは、その人たちだけに神の国の秘密が明かされているのだ、というものです。また、その他の人びとを「外の人」と言ってしまう…。そして、その後に続く言葉は、神を認めず赦されることのない人々がある、となっています。
しかし、「説明過多による根腐れ」ということで言えば、そしてその教会が恵みを独占していると自己理解しやってきたこと、世界を不当に支配する行動の数々を思えば、「見るが、認めない」に当てはまるのはむしろ教会の側だったんじゃないんでしょうか。聞くには聞くが、その説明ばかりを求め、自分でイメージを膨らませていくには至らない。そして聞いたその説明を唯一の答えとする。それは、思わぬところで育っていく神の国を理解していない、ということになるのでは?神に立ち帰っていないのは、むしろ教会になるのではないか?恵みを独占するという思考の、排他的原理主義に陥っている教会になるのではないか。この言葉は、そう、見るには見るが認めない、聞くには聞くが理解できない…、この言葉は、「教会は自らの罪深さに向かい合え」という意味として今は受け止められなくてはならないのではないか。
むしろ「教会の外」からの声が教会を新生させてきました。そうであれば、全員がキリスト教徒にならないためにイエスがたとえ話を語った、というのは本当かもしれません。しかしそれは、救われる者と救われない者を選り分けるためではなく、みんなで一緒に救われるためです。この世界の全員がキリスト教徒になっていたら、私たちはこの世界を修正する力を失っていたかもしれません。キリスト教徒が多数でありながら、そのキリスト教徒同士で人種差別が温存された時代のいかに長かったかを振り返るとき、そう思わざるをえません。たとえば、マーティン・L・キングJr. に影響をあたえた人物の一人は、異教徒のM・ガンディーだったという出来事もまた象徴的だと思います。
教会の目で、取るに足りないとされていた小さな者たちがからし種。彼らが育って、僕らを変える。チョット待って、僕らはずっと恵みを勘違いしてたんじゃね?「悪人にも注がれる雨」とか言いながら結局、救いは説明を聞いた人だけ?んなわけないって!イエスのたとえ話の広がりを、僕らの知らないところで成長する神の国を、イメージしよう。そこにはどんな植物がある?何が咲く?
僕がまず、思い浮かべるのは、仏様を支える見事な蓮。あるいはアラベスク模様を飾るつる草もある。そして、その横に咲く白百合は終わることのないいのちを祝う。棘だらけのアザミも王者の紫が似合う。花は、草はいのちの風に揺らぐ、そして「すべては良かった」と今日も歌う。
種のまま鳥に食べられる?ノープロブレム、それだっていのちを支えてる。この神の国から漏れるものは誰もいない!
だから、あなたが咲かせた花のカラーを、どうかそのまま、この神の国に加えてください。
<参考資料>
いのフェスチャンネル「「Ministry」ざっくりわかる神学講座①説教学」
自分で書いたものですが、以下のレビューも下敷きにしています。
「【キリスト教YouTubeチャンネルレビュー】 #1 真駒内教会」
<説教動画>
もしよければ音声付きでもどうぞ。
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