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【礼拝説教】いのちのための【無料で全文読めます】

<はじめに>

有料記事としていますが、全文読めます。

この記事は2022年2月13日@三次教会の説教です。

<聖書>

イザヤ書 1章10〜17節
マルコによる福音書2章23〜28節

(※)「4年サイクル聖書日課」の使い方を私が間違えておりまして、本日から灰の水曜日までの朗読聖書箇所は他の多くの教会と少しズレが出ます。すみません。
(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。


<説教本文>


問1.教会は慈しみにあふれた共同体である。○か☓か。

問2.ファリサイ派は慈しみにあふれた共同体である。○か☓か。

どうでしょうか。ちょっと意地悪な誘導を意図した質問の仕方だったかもしれません。それぞれ、見え方によってどっちもあると思います。ただ、個人的には、片方がマルなのにもう片方がバツというのにはちょっと違和感があります。福音書は、キリスト教がユダヤ教から分かれていくような時代に書かれたようですので、ちょっと恨み節というようなものが入っているのはある種仕方ないところもあるのですが…。しかし、ファリサイ派には慈しみがなく、キリスト教にはそれがあふれているという見解を今になっても言い続けるのはちょっと固定観念に囚われてすぎと思います。勧善懲悪はたしかに分かりやすい形ですが、悪役を必要とするということでもあって、それってイエスの「みんなで上がろう」という姿勢にそぐわないように思うんですよね。「ファリサイ派を暗く陰険なイエスの敵として想像するのは、もうやめた方がいい」、と書いてある本があります(ゼレ/ショットロフ『ナザレの人イエス』)。ファリサイ派、彼らは民衆でした。律法を生活の中でどう実現するか、という知恵。これが彼らの注目したことで、イエスもこの大枠はそこまで変わりません。特別に区切られた祈る時間だけじゃなくて、すべての時間を神とともに。先ほど引用した本には、材質にこだわったカップが発掘されているとも書いてありました。それもまた生活全てを神とともにという意志の現れと評価できるでしょう。

しかし、「ファリサイ派」という名前は、「分ける」という意味を含みます。そして、今日の福音書で話題になっている聖別された安息日、それを全ての人間が休息のなかで味わえない状況でもあったのは確かなことだと思います。みんなが休むというときの「みんな」。例えば奴隷とさせられていた人びと、移民者たちも当然含むものだそうです。しかし、貧しさのために祈るどころじゃない人々がいる、病気の人、飢餓状態の人もいる…。あるいは、生活全てを神とともに、というならば、「安息日だけが解放区」で満足してしまうというのもどうなんでしょう。


そういうところから言えば、最初の問い、ファリサイ派の人々は慈しみの思いにあふれた民衆ではあったけれど、それは一面的です。別のところからの目には、憐れみを欠いた人びとに映ったでしょう。ファリサイ派に限ったことではないですが、サマリア人への侮蔑の目、その眼光の苛烈さは、それが向けられた側、サマリア人たちに禍々しいほどの恐怖を植え付けたのではないでしょうか。


仮想敵の存在を利用し続けた上での「聖なるもの」という区別は、本当に清い輝き、なんでしょうか。


これは全くそのまま、キリスト教にも当てはまります。キリスト教徒は慈しみの思いにあふれた人びとであるけれど、それは一面的です。別のところからの目には、憐れみを欠いた人びとに映ったでしょう。他宗教信者への侮蔑の目は、いまもキリスト教を名乗る人びとにどこか潜んでかもしれないと思いますし、それを隠す気のないグループだってあります。他の例で言えば、キリスト教に限ったことではないですが、性的少数者への目線、その眼光の苛烈さは、それが向けられた人々の息の根を止めてしまうほどの恐怖を植え付けてきました。そしてキリスト教を名乗るグループの一部はこの恐ろしい人格否定を宣教と勘違いして継続しています。

安息日だけが解放区ってどうなの?ってさっき言ったけれど、ある人々はこの聖日だって「地獄」という脅す言葉で、自己卑下の毒を盛られる。安息ですらない!解放区ですらない!いのちを削られた貧しき人々の物語を忘れないように、イエス一行は食べてみせたのだろうと思います。


それは、安息日そのものを全否定するというものではなく、「みんなで上がろうよ」という一場面です。何か忘れてない?何か見落としてない?というメッセージです。解放区を、もっと増やしていこうよ、ということです。コレが僕らを新しくする。差別的な思考は否定します。しかしそれは、その思考が「すべては良かった」という聖書全体の基になった恵みを損なうものであるからで、「みんなで上がろうよ」の一場面です。「みんなで上がろうよ」、それすなわち、「ビヨンド・チャーチァニティ」、キリスト教を越える、教会教を越える。教会という枠組みを越えてすべての人々と共に歩む日々。そう、全ての木々の元にそれぞれ憩う命が、脅かすものは何もないという宣言の響き渡るのを聞き、安息を謳歌しちまおうって意味。僕らがイエスとともに歌うのは、皆のいのちそのものがすべて肯定される「美しき人間の日々」!

過去をひもとけば、いろんな事柄があなたの前にもあったでしょうよ。
だけどもこの先はすばらしい日々だけ、残っているようなそんな気がして。

だから素敵なあなたよ、分かち合ってくれないか、美しき人間の日々!
涙を分けよう、美しき人間の日々!
美しき日々。

ただの人間、なにもないところから俺たちは始めるべきなわけですよ。
そのために僕はここで全ての人への恵みを語って、そうしてキリスト教徒をやっているわけですよ。
本当に思っていることを本当に言って、本当にあなたを愛して、美しき人間の日々にするわけですよ。

(この部分はサンボマスター「美しき人間の日々(サンボマスターは
君に語りかけるバージョン)」の歌詞を元にしています)

すべての人に注がれる神の恵みをいつもチェック!


<参考資料>

ゼレ/ショットロフ『ナザレの人イエス』(丹治めぐみ訳)
フロイド・ハウレット『教会教を越えて』(原著名 Beyond Churchianity 、大倉一郎訳)

サンボマスター「美しき人間の日々(サンボマスターは君に語りかけるバージョン)」


<説教動画>

もしよければ音声付きでもどうぞ。


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