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【礼拝説教】祝福、お届けに上がります。【無料で全文読めます】

<はじめに>

有料記事としていますが、全文読めます。

この記事は2022年1月30日@三次教会の説教です。

<聖書>

コリントの信徒への手紙一 6章19〜20節
マルコによる福音書1章40〜45節
(※)聖書本文は、たとえば日本聖書協会HPなどから見ることができます。
「書名・章・節から探す」のところで書名と章まで入力し、節入力を省略すれば、章全体を参照できます。


<説教本文>「祝福、お届けに上がります。」

ある福音書の終わりに、「イエスがしたことを全部書こうと思ったら、世界中の本棚が溢れちまう」みたいなことが書いてあるのだから、もっと違ったエピソードを代わりに記録しても良かったんじゃないか…なんて思ったりします。「誰にも言うな」という最初のイエスの意志をまっとうするためにここは記録しない…、ということでも良さそうですよね。

福音書を書いた人も一緒になって言いふらしているように見えてしまいまして、私にはちょっと違和感があります。イエスのことを伝えずにはいられないほどの喜びなんだ、と言えばそれまでですし、割とそういうことは聞いてきた気もするし、それに全く同意しないわけでもないのですが…。でも、いくら自分が嬉しかったとしても、当事者の一人が言うなって言ってるわけで…。「きつく注意した」という翻訳はイマイチで、イエス自身の気持ちが高ぶっているような状態を示すと説明する本もありますんで、「周囲に言っちゃいけない」という思いへの熱量はそこまでではなかったかもしれませんが…。それでも無視するのはなぁ…という感じもあります。

イエスはなんで「周囲に言うな」と言ったんでしょう。今日登場した彼のように、イエスの癒やしを必要としている人がいるかもしれないのに。…なんで?

僕の中で、こういう癒やしの話を聞く時に気をつけないとと思っていることは、結局、病気は治癒しないといけないという感覚に陥らないかということです。「病気が治らずに死んだ僕の両親は不幸だったのか」。これがこういう癒やし物語を見る度に私の中に浮かび上がる問題なのです。イエスのもとにたどり着いたこの人は癒やされる、しかし病気が死因の人は数え切れない世界。それはきっと当時からです。

癒やされた人に特別な神の力が注がれたというのでは、結局、成功と思われるものに達した限られた人物が称賛される…というのと形式は同じじゃないですか。

もしかしたらイエスは「病気は悪いもので癒やされないとならない」という感覚を言い広げないようにって思いだったんじゃないでしょうか。そしてもうひとつ。この物語の主人公は誰なのか、ということも重なってくるように思います。

この癒やされた人が、自らで取り戻した自分の人生。イエスが言いふらすなといったのは、コレはオレの業績じゃないんだよね、という意味ではないか。ときどきイエスは病を抱えた人たちに言います、「あなたの信仰があなたを救った」。神の祝福は治る前からあったということです。そして、弟子たちを世界に派遣する時にこう伝えます。「君たちはオレと同じように人を癒せる」。この意味は、癒やしが特別な個人によってなされるものであってはならないということです。癒やしの業は聖人たちに受け継がれたりもしましたが、修道士アントニオスは家族の癒やしを求めて訪ねてきた人にこうも言っています。「なんでわたしに頼む?わたしと君は同じ人間だ」。

また、「神が清くされたのだから食べなさい」と禁止されていた食べ物を食べても大丈夫と、ペトロが神から言われるシーンがあります。僕はこれもヒントになると思います。うなぎにウロコは今もありません(※)。タコは多分昔も今もあの形です。神が「清くされた」と宣言しても、姿が変わらないということだってあるのです。
(※)実際は肉眼で見えないだけで、小さなウロコがあるそうです。ただ、この聖書の場面からうろこありになったのではないですよね、きっと…

「精神病であっても精神障害者ではない、と思える社会を実現したい。障害というのは、社会が作るものだから」。精神関係の福祉職をしていた父親がいつだったか教えてくれたこの言葉を今日の物語に重ねます。イエスの物語は、治った特別な一人を描き出すのではない。少なくともそれで終わりではない。病を抱えたままでそれぞれが生きられる、新しい天と地の訪れを見ているのだということ!「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」。福音とは原初の祝福!祝福はすでにあるんだ、とただ届ける。これがイエスのしたことです。悔い改めるのは、つくりかえられるのは「健常者主義な世界」。

だから、病を抱えた人びとが医学的にはそれが治らないまま社会復帰した…という形での再現が、今は求められているんじゃないでしょうか。あるいは、この再現は、呪いであるかのように扱われていたあらゆる、偏見を受ける属性、社会的スティグマに拡大されてなされるようにと、求められているんじゃないでしょうか。

最初は特別な一人、というのはもしかしたらあるのかもしれません。ジャッキー・ロビンソンが、その卓越したスキルで野球場の景色を変えた。そうジェイムズ・コーンも語ります。でも、彼は地元のダンスホールや教会の人びとにも言及します、ふるさとは「黒人の美しさで満ち溢れていたのだ」と。

今日の人は、最初の一人として、治ったのかもしれません。だとすると、治ったことは最重要項目ではないのです。その治癒は、彼が治る前から祝福されるべき存在であったと語るためのものです。だから、誰が治したかというのは全く重要じゃないのです。彼が自分の人生を取り戻し、同じ境遇の人びとがそれぞれの人生を取り戻す先駆けになったという物語なのです。それで、イエスは言うなって言ったんじゃないでしょうか。

「オレは君の人生の主人公じゃない、だからオレのことは話すな。ただ自分の人生を取り戻してやるんだ。自分のために、また仲間のために。」

イエスが誰にも言うな、と言ったのはこういう意味じゃないか…?

この神の業が再現されなくてはなりません。そのためには、病気が治ったとされる事例を特別視してはならないのです。ましてや誰が治したかなんて、もっと重要じゃない。病気がそのままであったとしても、それぞれが自分の人生を手放さなくて良いように、人が後からつくった区分に目を向けず、原初の祝福をただ語る。昨日まで「呪い」かのように扱われていた属性そのままで、そのあなたが祝福されるべき存在なんだと語る。神の国が近づく。つくられたものはみな、繋がる。「いつの日か」、と言われるその時が早められなくてはならないはず。全ての神の子どもたちが手をつなぎ自由を歌う時来たる、という「その時」が早められなくてはならないはず。まっすぐに、真理の道はまっすぐに。そして今すぐに!!

ときは今!時は今!祝福が溢れすぎだ、なんて言ってみたいんだ。
We Shall Overcome!! …Someday?? NOW!! 

オレたちは勝つ、人間であることを勝ち取る、と歌う。そして手を繋ぐ。
イエスは言います。「求めるのはまず、神の正義、神の世界のはず」。
この言葉の意味が分かる?「祝福を送り合う、これは誰でもできます。だから誰も漏らさず、祝福、お届けに上がります」。

幸いである。
貧しい人は、悲しむ人は……幸いである。

<参考資料>

J. コーン『誰にも言わないと言ったけれど』(榎本空訳)
D. ゼレ/L. ショットロフ『ナザレの人イエス』(丹治めぐみ訳)

<説教動画>

もしよければ音声付きでもどうぞ。

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