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Episode3: To Live or Not to Live

何気ない日々を過ごす中で、呼吸を最後に意識したのはいつだろうか。肺一杯に外気を溜めて、そして吐き出す。ただの深呼吸ですら心地よいから、煙草の煙を肺に入れる人達は本当に幸福なのだろうと思ったりもする。

満点の青空に飛び交う鳩の群れを眺めながら、次の人生は渡り鳥になって世界中を飛び回るのもさぞかし楽しいだろうと想像を膨らませながら、下界で黙々と教科書のページをめくリ続ける日々。自分の価値観しかり人生観しかり、成長していると錯覚し続ける虚空な人生に果たして意味はあるのだろうかと、ふとページをめくる手を止める。

人生は何をもって正解か失敗かという議論に限界を感じ、人々は「人生に正解も失敗もないから自分の生きたいように生きなさい。」と口々にする。しかし大抵その答えに行き着いた人達は最低限の生活を保障された人達で、少々説得力に欠ける。しかし、自責の念を逃れつつアドバイスを求めた最後の答えなのかもしれない。自分が答える立場となったら、全く同じことを言うだろう。

勿論、人生に正解がないのは周知の事実である。何を成功とするのか、幸福と定めるかの尺度は人それぞれである。良い仕事について安定した家族を養うのも幸せであり、また事業主となり世界中を旅して生きるのも幸せだと言える。

また幸福の副産物として苦悩や葛藤は常に纏い付くものだろう。学業や仕事に専念して出世街道を進む人達は、余暇が相対的に少なくなるものだろう。独立する人達は安定性はより不安定だろう。どの道を選んだところで、入り口と出口は皆常に同じだ。

我々の入り口は誕生であり、出口は死である。

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人生とは何を意味しているのだろうか。古来の家系図が重視されない自由個人主義的な社会でこれからの生きる意味を模索し続ける私たちは、昔の人達よりも結果として不自由な社会に生まれてしまったのかもしれない。

不自由・自由の尺度は人それぞれだが、自由の反対側に資本主義的超競争社会での生存競争という無意味な価値を生み出してしまったのは、文明の発展であり後退の始まりだとも考えられる。

これからの人生に私たちは何を求め、社会から何を求められて生きていくのだろうか。煙草の煙が肺を飽和する快楽と腐敗の狭間に、渡り鳥の自由な飛行と過酷な生存競争の境界に私達は、これからも葛藤し続けるのだろう。

生きる意味は果たしてあるのだろうか。

地下2階の図書館から見える何気ない景色を横目に、私は教科書のページをめくり続けることにした。

>>>次回は「受験」と「就活」について考えてみたいと思います。


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