資本主義と社会主義-戦国時代の民主主義者

・2010年にネット上に公開した文章を転載しています

 資本主義と社会主義の戦いに資本主義が勝利した、といった言説がメディアを賑わせてから既に15年近くがすぎた(近年では資本主義の崩壊などといった言説も目にするようになったが)。

資本主義に対しても社会主義に対しても批判的な考えをもっていたものからすれば、資本主義と社会主義との戦いなどはなかったといえる。

社会主義を支持していた人も、これを批判していた人も、社会主義を過大評価していたために、資本主義と社会主義との戦いがあるようにみえただけだろう。

社会主義は、資本主義との戦いの舞台にすらあがっていなかったといえる。

 資本主義経済と社会主義経済を比較した場合、どちらも多くの欠陥を抱えた経済制度に過ぎず、どちらが良いか上かといった問題ではないだろう。

この比較は、封建制と絶対王政(あるいは中央集権制専制国家)、どちらが良いか上かといった比較と同様のものだろう

封建制も絶対王政も、民主主義的政治制度と比較すれば劣位の、あるいは望ましくない政治制度にすぎない。

経済制度に関しては、政治制度における民主主義のような、現在考えられる制度の中では一番望ましいと思えるものがないのが実情といえる。

だから、政治制度における民主主義のような経済制度が構想された時、はじめて資本主義ともう1つの経済制度との間の戦いが生じるといえるだろう。

 一方、民主主義的政治制度と社会主義的政治制度を比較した場合には、前者の方がより望ましいものといえるだろう。

社会主義とは、資本主義経済の諸問題を解決するのと引き換えに、民主主義政治の良い点をほとんど放棄してしまった奇妙な政治制度といえる。

 マルクス-レーニン主義の政治思想は、プラトンの哲人王の政治、孔子の徳の政治と同様、「政治権力をもった者が、その力を正しく使うことによって善政を行う」といったものにすぎない。

 「権力は腐敗する」という原則に立ち、権力を分散させ互いに抑制させたり、腐敗した権力者をその座から引きずりおろす制度を構築したり、権力の濫用、横暴を抑止することを意図した民主主義制度からはあきらかに後退している。

 資本主義経済の分析に優れた知性を発揮したマルクス(主義者)が、政治に対してはなぜこんなにもナイーブな考えしかもっていなかったのか不思議ですらある。

それだけマルクスの生きていた時代の労働者たちが悲惨な状態におかれていて、それを救済することが喫緊の課題だったのだろう。

 そして、その後のマルクス主義者たちが、下部構造(経済)を重視したマルクスの思想を杓子定規に解釈して、下部構造の問題さえ解決すれば上部構造の問題もすべて解決できると楽観的に考えてしまったのかもしれない(最初の社会主義革命といわれたロシア革命が、上部構造において権力を掌握した政治指導者が、その力によって下部構造を変革するという「下部構造決定論」と逆の形をとっていたのが皮肉な話ではあるが)。

 民主主義-資本主義的政治経済制度と、社会主義的政治経済制度を比較した場合、民主主義的制度が上手く機能しているのならば、民主主義-資本主義的制度の方がより良い制度といえるだろう(ただし、資本主義経済下で貧困層が増大し、生活すらできない人が多数でてくれば、社会主義的政策で貧困をなくした方が良いと考える人が増えてくるだろうが)。

 革命は多くの犠牲を伴うのだから、民主主義-資本主義制度を劣位の制度にかえようとする人は少数派にすぎないだろう。

だから、民主主義-資本主義体制から社会主義体制へ移行した国がほとんどないのは当然といえるだろう。

 では現存する(した)社会主義国家をどう説明するのか、という疑問をもつ人もいるかもしれない。

これは、資本主義化も民主主義化もしていない非近代的な社会に生きていた人たちが、自分たちの社会、国家を近代化させる際に、民主主義-資本主義制度と社会主義制度という2つの選択肢があり、後者を選択した国が社会主義国家となったという説明が最も説得力があるだろう。

 マルクス(主義者たち)は、社会民主主義を、資本主義を擁護し延命させるものにすぎないとして批判したそうだが、歴史は一回りしてその時点まで戻ってしまったような気がする。

 社会主義に多くの人が幻想を抱いていた時代には、社会民主主義は理想の実現を阻む否定すべきものであったのかもしれない。

だが、「資本主義もダメだが社会主義もダメ」という認識を多くの人がもつようになった時代においては、これらにかわるより望ましい経済制度が生まれるまでの間は、あらゆる手段を用いて資本主義経済の弊害を減少させていくしかないであろう(そのような地道な試みの中から新しい経済制度の構想が生まれてくるかもしれないし)。

 また、アメリカにおいて資本主義の矛盾が最も顕在化している状況をみると、資本主義がその内部矛盾によって崩壊するという現象は、アメリカにおいて最初におこるかもしれない(社会主義との戦いに勝利したと言って、資本主義を謳歌、礼讃したアメリカでもしそのようなことがおきるとしたら、これもまた皮肉な話ではあるが)。

 資本主義がその内部矛盾によって崩壊することがおこるとしても、その後どのような経済制度ができあがるのか、正確なことは誰にもわからないだろう。

たが、社会制度が根本から変革される時には、それを正当化したり理論的に支える社会思想が生まれてきているから、これから数世紀のうちには資本主義後の経済制度を構想した社会思想が生まれてくるのではないだろうか。

 資本主義社会に生き、これを嫌悪、憎悪している人たちは、戦国時代に生きている民主主義者のようなものだ。

「経済的戦国社会」といえる資本主義社会を、自分たちが望ましいと思う社会につくりかえる力がないだけでなく、どのような社会がより望ましいのか、具体的な青写真、設計図すらない状態なのだから。

 ただ、何百年かあとにはやってくるかもしれないより望ましい社会を待ち続けるしかない夢想家たち。

(さしずめ、社会主義運動は千年王国運動のようなものだろう。この世に楽園をつくろうとした禁欲的な理想主義者たちの運動...)。

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