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【ブーマー・ウェルズ】アラバマの大男はアメリカンフットボールでも頭角を現しNFLドラフトでも指名されるほどの身体能力でMLB入りしたのち運命の巡り合わせで日本にやってくると外国人選手初の三冠王となった

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、ブーマー・ウェルズを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=5hbsrMoKsbI&t=46s

ウイリー・メイズやウイリー・マッコビーといった
スーパースターを輩出したアメリカ合衆国の
アラバマ州で
生まれ育った本名グレゴリー・デウェイン・ウェルズは
12歳から大人の草野球チームに交じってプレーすると
183センチ、80キロの体格で高校時代は
セカンドや外野を主に守っていました。

他にもアメリカンフットボールや
バスケットボールでも頭角を現し
ニューヨーク州立大学オールバニア校時代には
アメフトの選手として、NFL入りを目指します。

1975年、NFLドラフト16巡目でニューヨーク・ジェッツに指名され、
2カ月ほどプレーしましたが
ヒザの半月板を痛めた影響から
自由契約となった事で野球に転身、
アマチュアFA選手として、MLB傘下パイレーツと
契約を結び、野球の世界に足を踏み入れました。

1981年にトロント・ブルージェイズ、
翌年にはミネソタ・ツインズの
3A(スリーエー)トレドに移籍、
マイナリーグの試合で打った特大ホームランを
見たファンが爆発男ブーマーと呼んだのを
きっかけに、放送席も強烈な打球を
ブーム・オフ・ザ・バットと表現、
場内アナウンスもブーマー・ウェルズの呼び名で
定着しました。

するとその年のシーズンオフ、想像もしなかった
展開が待ち受けていたのです。

長打の打てる助っ人を探しにハワイの
ウィンターミーティングに
参加していた阪急ブレーブスの関係者は当初、
ランディ・バースに目を付けていましたが
阪神タイガースとの競り合いになり、こう着状態に。

それではと、長打力がありながら
三振の少ないブーマーにも
白羽の矢を立て、同時進行で所属先の
ツインズと交渉します。

ツインズ側はメジャーに昇格させる予定があるからと
移籍を拒否しましたがトレードマネーを
支払う条件や、ツインズのオーナーが黒人嫌いで
知られていた事から
最終的には売却に同意、ブーマーとの交渉権を
手に入れる事に成功しました。

マイナーで打率3割3分6厘、打撃の名手と呼ばれ
ファンの人気も高かった28歳のブーマーは
トレードマネーを稼ぐために商品のように
自分が売却された事に
絶望しましたが、拒否すれば500万円だった年棒も
打ち切られ、野球を続けるには日本行き以外の
選択肢はないと海を渡ることを決断します。

6年間、NPBで活躍したチャーリー・マニエルから
日本の野球について事前に情報を収集、
日本で5年は野球をやってアメリカに家を建てたいと
新たな夢を描き、年棒3800万円で契約、デブラ夫人から
食事代として貰える1日2000円の小遣いを握りしめ
神戸の自宅から阪急電車を利用して球場へ通いながら
ハングリーに野球に打ち込みました。

阪急の関係者からキャンプ地の高知はフロリダの
ようなところたがら楽しんでくれと言われ行ってみたら
雪が降っていたというキャンプ初日、
身長2メートル、体重100キロの巨体は
いきなり日本人の度肝を抜きます。

打撃練習でひと振りした打球が推定160メートルの
場外弾として消えていくと
怪人ブーマー、ブームを呼ぶ男などメディアで特集記事が
組まれ、一気に注目の的となりました。

その打球を見た老人が心臓発作を起こして倒れただの、
近所の民家に飛び込んだ打球で金魚鉢を割ったといった
嘘か誠か分からない話まで話題となり、
人気球団では無かった阪急もこの流れに
乗っていこうと様々な企画を展開、
場外弾を打ったら2メートルのブーマーパンを
プレゼントやら、
西宮球場最上段のブーマーゾーンに
飛び込んだホームランボールをキャッチしたら
世界旅行をプレゼントなどなど。

さらには場外サク越え弾で事故が起こったら
大変だからと背番号44の打球には
1億円のブーマー保険をかけるなど
規格外のニュースで話題となりました。

聞いてはいたけど長かったよという
2か月におよぶ春季キャンプを終えて開幕を迎えると
冬に受けたヒザの手術やスライディングをした際に
痛めた右手親指の影響もありながら、
打率3割4厘、17本塁打の成績を残しますが、

ブーマー自身、1年目は、日本の練習法や
投手の変化球攻め、クセや
配球パターンなど数冊におよぶノートを取りながら
研究したほか、
試合前に二軍のグラウンドだと思って練習していた
川崎球場に観客が入ってきたり
投手が打たれたのに捕手が変えられたりといった
日本の野球に慣れるためのシーズンと割り切っていました。

またアメリカ時代、コーチから指示を受けると
「なぜ」と理由を聞き、納得してから取り組んで
いましたが、黙って言われた通りにやれ、という
日本のコーチの指導法にもアジャストしようと
聞き返す癖をやめたと言います。

本人はプエルトリコやベネズエラ、
アメリカなど様々なチームに所属した経験があり
順応性には自信があるとの言葉通り、1年で
完璧に日本に慣れたことで翌年の大爆発に
繋げたのでした。

阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回、
歴代7位の勝利数1322勝をあげた知将、上田監督も
ブーマーがチームに馴染めるように気にかけていて、
お小遣いの中からフライドチキンや
うどんばかり食べているのを見かねて
ステーキを何度もご馳走したり、
いつも冗談を言ってリラックスしてプレーできる環境を
整える事を心掛けてくれました。

迎えた来日2年目の1984年、
不動の四番として打率3割5分5厘、37本塁打、
130打点で外国人選手初となる三冠王とMVPを獲得、
チームのリーグ優勝にも貢献すると
その活躍を見たメジャーリーグからオファーも
届きましたが日本で野球人生を継続する道を選択、
その後も活躍は止まりません。

来日から5年連続で120試合以上に出場し
打率は3割以上、
本塁打と打点も1年目以外は30本、
100打点以上と毎年、打ちまくり
まさに助っ人の呼び名にふさわしい
働きを見せました。

豪打のブーマーにあやかり
PL時代の清原にキヨマーのニックネームが
つき、広島から移籍してきた水谷が
ミズマ―と呼ばれたりと野球界に多大な影響を与えたばかりか

1986年には野球界を飛び出してお茶の間にも登場。
パスタイムのテレビCMで「ハンキューベリーマッチ」
という球界名台詞も残しますが、
当時セパの人気格差はすさまじくCM出演料は
阪神のランディバースと10倍の差があったそうです。

スポーツメーカーのアドバイザリー料でも
クロマティとは雲泥の差、
改善を求めても「注目度が違います、
巨人に入団するなら喜んで同じ額を払います」と
断られる有様でした。

6年目の1988年、左ヒザ痛が再発して治療のため
一時帰国を余儀なくされましたが
3週間後には日本に戻り試合に出場、
ここまで育ててくれた阪急から年俸1億2000万円も
貰っておいてヒザが痛い程度で休めない、と
7月13日には、飛距離162mの場外本塁打を放ち
日本最長記録を樹立します。

オリックスとなった89年も開幕から5試合連発と
大暴れ、さらにレフトスタンドを指差す
予告ホームランを実現させるなど止まることを知らず、
南海から移籍してきた門田博光とともに
ブルーサンダー打線を形成、打率3割2分2厘、
40本塁打、124打点の好成績で首位打者と打点王の
二冠に輝きました。

その年のオフ、巨人側から鹿取義隆とのトレードの
打診がありましたか、水野雄仁もプラスで
要求されたことで白紙となり残留すると
35歳にして年俸2億1000万円で契約、
ジャパニーズドリームを実現させたのです。

1991年、121試合に出場して打率3割。20本塁打、
67打点を置き土産に福岡ダイエーホークスに
移籍した翌1992年、10年目のシーズンも
ブーマーは新天地で大暴れ、
129試合に出場して打率2割7分1厘、
本塁打26本、97打点で
自身4度目の打点王を獲得しましたが、
38歳という年齢を理由に解雇となり
そのまま静かに現役を引退しました。

日本でプレーした10年間で三冠王をはじめ
首位打者2回に打点王4回、
積み重ねた本塁打277本はバースの202本を
抑えて外国人選手でトップ、901打点に
通算打率は右打者では
長嶋茂雄や落合博満を超える歴代1位の
3割1分7厘と、とてつもない数字を残しました。

引退後はオリックスやドミニカ共和国で
打撃コーチを務めたあと、エージェントとして
ナイジェル・ウィルソンを
日本球界に送り込むなど、日米野球界の
橋渡し役としても尽力、リタイア後は
ジョージア州の自宅でデブラ夫人と悠々自適の
生活を送れるようになりました。

来日当初、ブーマーの肩にちょこんと座って
一緒に球場入りしていた娘のミカさんが
英語教師となり、韓国人男性と結婚した事から
韓国にいる孫娘のナリちゃんと
毎日テレビ通話をする事を楽しみにしていて、

娘に会いに行く時には必ず日本にも立ち寄り
焼きそば、鉄板焼き、天ぷら、うなぎなど
大好きな日本の料理を堪能しているというブーマーは

「打点王を獲得してクビになったり、歴代1位の成績を
残しても野球殿堂の選考で落選したりと
落ち込む事もあったけど、それでも日本は良い思い出ばかりだよ。
阪急電車に乗っているとファンに声をかけられて
サインを求められるのは幸せな時間だったね。

チームメイトとの絆も強いままさ。山田さんは
落ち込んでいると、声を掛けてくれたり、
ベンチではチームメートとジャレあったり
笑いが絶えなかったね。みんなでよく食事にも行ったけど
フグだけは怖くて食べれなかったなー。

他チームの外国人選手とも仲が良かったよ。
クロマティ、バース、ブライアント、
デストラーデ、ウインタースとは
六本木のニックスピザで年に3、4回集まっていたね。
また会えるのを楽しみにしているし
日本が大好きだからいつかコーチとして戻りたいね。

日本で成功するにはアメリカのやり方は
通用しないと割り切ってメジャーでの栄光を忘れる事と
何よりゲームを楽しむことだね。と語っています。

その巨体からは想像もできないほど
コンパクトで器用なバッティングと
優れた選球眼は折り紙つきで、ブーマー自身も
チームに最も貢献できる打率を重要視していました。

2ストライクまではクローズドスタンスで長打を狙い、
追い込まれるとスクエアにしてミート中心に
切り替えるバッティングで
阪急時代は9年のうち8回が3割を越え、
三振も1シーズン40個以上喫したのは10年間で
1度だけでした。

またショートも守れるという守備力も魅力で
ゴールデングラブ賞を2回獲得、さらに
毎年盗塁を成功させたほど走塁も悪くなく
本人は自分はオールラウンドプレーヤーだと
公言しています。

その言葉通り、阪急時代同僚だった山田久志は
ブーマーはタイトルには全く固執しない、
フォア・ザ・チームの選手だったから
ホームランを狙えばもっと打てたけど
チャンスではライト方向に軽く打ったね。
と語り、
星野伸之も
頭のいい選手でカウントが追い込まれると
右打ちに切り替えてましたよ、と証言しています。

日本野球界最高のピッチャーと絶賛していた
ロッテオリオンズの村田兆治との対戦が
楽しみだったと語るブーマーは
予告ホームランや、隠し球を成功させたり
サインの求めを決して断らず
試合後も長く残って、カタカナでブーマーと
書き続けるファンサービスの優れた選手でした。

大尊敬していた上田監督が亡くなった際には
最高のマネージャーが亡くなりとても寂しい。
日本での活躍があったのは上田さんがいたからと、
何度も感謝を口にしていた怪人。

関西の街で愛され、外国人初の3冠王に
輝いた強さと巧さを兼ね備えた最強スラッガーにして
最高のアベレージヒッター、ブーマー・ウェルズ

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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