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【大塚晶文】AC/DCの曲に乗って登場し打者をなぎ倒す気合の男 球が消えるとイチローも絶賛したスライダーを武器にアメリカで躍動するクローザー

おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、大塚 晶文さんを
取り上げていきます

https://www.youtube.com/watch?v=koZwmLnABTw&t=53s

千葉県に生まれ、野球をやっている
ものなら誰もが夢みる
甲子園出場は叶いませんでしたが、

高校1年の冬に亡くなった最愛の母との約束、
プロ野球選手になるという夢をかなえるべく、
東海大学、日本通運野球部と野球を続けて活躍すると、
1996年のドラフト会議で近鉄バファローズから
2位指名を受けて入団、プロ野球選手としての
一歩を踏み出します。

尊敬する野茂英雄のメジャー移籍で、空き番号となっていた
背番号11を自ら希望して継承、
すぐに即戦力のセットアッパーとして
50試合以上に登板、100奪三振を超える活躍を
見せ、バファローズの「新・ドクターK」の異名を取りました。

翌年には、赤堀に代わるクローザーとして
パ・リーグ新記録の
35セーブを挙げて最優秀救援投手に輝くなど
不動のクローザーとしてマウンドに
立ち続け、12年ぶりのリーグ優勝にも
貢献したのでした。

2003年に中日ドラゴンズへ移籍すると
近鉄時代の先輩である久保康生(くぼ やすお)
から譲り受けた
デサント製のグラブを使用して
退団したギャラードに代わってクローザーを務め、
1勝3敗17セーブ防御率2.09の成績を挙げて
セリーグでもクローザーとして君臨します。

中日に移籍して1年でしたが落合英二や井端と
すぐに親しくなり、岡本真也からも慕われたことで
メジャー挑戦か中日に残るか、とても悩んでいたところ

新監督の落合から、自分が一番後悔しないように
道を選ばなくちゃいけないぞ、と声をかけられ、
その背中を押してもらったことで
シーズンオフに再チャレンジとなる
2度目のポスティングを利用して
メジャー移籍を目指したのでした。

すると、サンディエゴ・パドレスが30万ドルで落札、
2年契約を結び、尊敬する野茂がロサンゼルス・ドジャースで
メジャーリーガーとしての最初につけた背番号
16を希望し、ついに
念願のメジャーリーガーとなります。

2004年4月6日、ロサンゼルス・ドジャース戦で
メジャーデビュー、
当初はあまり勝敗に関係ないところでの
起用が多くなっていましたが、次第にその実力を発揮、

ボールの出どころの見えにくいフォームから154kmの速球と
縦のスライダー、フォークボール、チェンジアップを武器に

初勝利と初セーブを挙げると
首脳陣の信頼を勝ち得て
セットアッパーとして定着していきます。

特にスライダーはイチローから「球が消える」と言われ、
ラモン・ヘルナンデスからは「他の球種が必要ないほどのスライダーだ」と
絶賛されました。

ヤンキース戦では、松井秀喜とも対戦、
8回と9回の終盤を任されて打者6人を
完璧に抑えこみ、お買い得だった
FA選手6位に選ばれます。

投手有利と言われるペトコ・パークの
好条件も味方にして年間を通して活躍、
日本人選手シーズン最多となる
73試合に登板し、防御率1.75、
リーグ最多の34ホールドを達成し、最高のシーズンとなりました。

抑えたときの口癖、ヨッシャーが、パドレスのチームメイトに流行、
実況アナウンサーまでもがヨッシャーを使用するようになり、
ペトコ・パークで大塚が最後の打者を打ち取るとバックスクリーンの
大型ビジョンには、YOSSHAA!と表示されるようになりました。

自身の後ろを投げるパドレスのクローザー、
トレバー・ホフマンとの関係も良好で、
共同で病院や孤児院への慰問をおこなったり、
球団CMで共演して、モーニング娘。の「LOVEマシーン」を
披露するなど、チームにも溶け込んでいきました。

翌年も好調を維持、チーム7年ぶりの
地区優勝に貢献すると
第1回ワールド・ベースボール・クラシックの
日本代表にも選出され、
抑え投手として5試合に登板、
日本代表の優勝にも力を貸したのです。

特に決勝戦は、パドレスの本拠地であるペトコパークで
行われたため観戦していたパドレスファンからの
声援を受けて8回1点差に迫られた直後に登板し
わずか4球でピンチを脱して
日本代表を救うと、そのまま9回も投げ抜き、
WBC初の胴上げ投手の栄光も手に入れました。

メジャーリーグ3年目の2006年はトレードにより
テキサス・レンジャーズへ移籍。

ファーボールゼロ及び試合が締まるという意味で
背番号40をひっさげて
クローザーに抜擢されると、昨年とは正反対の
打者有利の球場レンジャーズ・
ボールパーク・イン・アーリントンが
ホームグラウンドでありながらも
ホーム防御率1.67という驚異的な数字をマークし、
佐々木主浩以来、日本人メジャーリーガー2人目と
なる30セーブを達成したのです。

ちなみに登板の際の入場曲はパドレス時代のチームメイト、
ホフマンの入場曲AC/DCの『ヘルズ・ベルズ』を許可をもらって
使用していました。

最終的にはリリーフ投手中リーグ8位の
防御率2.11の成績を残し
リーグを代表するクローザーとして
素晴らしい成績を納めたのでした。

翌2007年はエリック・ガニエの加入により
再びセットアップマンとしての
役割を任されることになり、奮闘します。

6月20日のシカゴ・カブス戦では
サミー・ソーサが放った
史上5人目となる通算600号のホームランボールを
ブルペンで投球練習中の大塚が捕球し
ソーサ本人に手渡すという貴重な経験もしました。

その後は痛めていた右肘に、メスを入れる
トミー・ジョン手術を受けたことで
登板機会はありませんでしたが、
懸命にリハビリに励み、
サムライオールジャパンで投手兼コーチとして
実戦に復帰、
またNOMOベースボールクラブ主催の
日米親善試合では
長谷川滋利が総監督を務めるアメリカ代表チームの
投手コーチを任されるなど
現役復帰を目指して挑戦し続けたのです。

なかなか右肘の状態が上向かないため
左投げにも挑戦したりと、貪欲に野球に取り組み、
2013年5月、独立リーグの信濃グランセローズへ
入団することが決定しますが
遠投した際に右肩を痛めてしまい
登板することなくシーズンを終えることとなりました。

翌年は信濃グランセローズの監督、
投手コーチ、選手として所属しながら
9月15日の新潟戦で7年2ヶ月ぶりとなる
公式戦登板を果たし、これが現役、
最後の登板となりました。

その後は中日の二軍投手コーチや
アンダー23ワールドカップの日本代表コーチ、
さらには、パドレスの3Aチームのコーチおよび
国際渉外担当として北米における選手調査も
任されるなど
国内外問わず、野球界発展のために
尽力します。

現役時代は、救援登板が自身の役割であった大塚は
試合で投げる時間が10分に満たないようなこともしばしばありましたが
そのわずかな時間に力を発揮するように、
24時間を逆算して活動していたそうです。

とてもストイックにルーティンが決まっていて
球場に入る時間、試合前のウォームアップ、エクササイズの流れ、
試合でブルペンに入るタイミング、
毎試合前のアメリカ国歌斉唱の際に
「お母さん、ありがとう。今日も見守ってください」と
つぶやくこと、球数、食事に至るまで、
そのプロ意識は相当なものだったのです。

引退してから、しばらくたったころ、
大塚の名前がMLBで話題にのぼる出来事が
起こりました。

ヤンキースにドラフト2位で入団した加藤内野手の母校である
野球の名門ランチョ・バーナード高校出身で、その後
サンディエゴ大学で外野手としてプレーした大塚の息子、虎之介が
ドラフト候補に挙がり、将来を嘱望される存在として
地元紙「サンディエゴ・ユニオン・トリビューン」に取り上げられたのです。

身長175cmながらパンチ力があり、俊足の虎之介は、
大塚が現役時代、トレーニングを共にした仲間の1人
ドジャースのデーブ・ロバーツ氏から助言を受けて、
ロバーツ家の打撃ケージで練習、
「コンパクトなスイングと内野をやれれば、
プロへのチャンスはある」のアドバイスで開眼、
ドラフト候補に名前が上がるまでになったのでした。

さらに王貞治氏にも、
日本の先発メンバーはほとんどが左バッターです。
僕も左打ちに変えようと思うのですが。と質問した際に

それはいいことだ。ぜひ、やってごらんなさい、と
背中を押してもらう言葉をいただき、勇気が沸いたそうです。

息子・虎之介いわく、何もないところから
メジャーリーガーにまで登り詰め、
このような恵まれた人脈を持つ父の
諦めない心は本当に尊敬します、という言葉の通り、

伝家の宝刀スライダーを武器に
ルーキーイヤーから引退するまで一貫してリリーバーとして
投げ続け、5度の手術をしながらも41歳で
カムバックを果たした強靭な精神力は、

ピンチになればなるほど、その力を発揮、
得点圏にランナーがいればいるほど、
被打率がグンと下がるその数字にも証明されている
日米通算176セーブを誇る生粋の守護神、 
大塚晶文

いかがでしたでしょうか?

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