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【岩隈久志】プロスピ登場記念!レジェンド投手!MLBでノーヒットノーランを達成 日本で天下無敵だった男は貴公子と呼ばれたその爽やかなイメージそのままにしなやかなフォームでメジャーリーグでも無双だった

おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、岩隈 久志(いわくま ひさし )さんを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=HhxrBy0FRos&t=54s

東京都東大和市に生まれ、西武線沿線に住んでいた岩隈は、
熱烈な西武ライオンズファンとなり、自身も
小学生から野球を始めます。

同級生には安達祐実や佐藤江梨子らが在籍していた
堀越高校に進学すると、西東京大会ベスト4まで勝ち進んだところで
惜しくも敗戦、甲子園出場とはなりませんでしたが
1999年ドラフト会議で大阪近鉄バファローズから5位指名を
受けてプロ野球選手となりました。

2年目にプロ初勝利を挙げると、手薄であった近鉄投手陣に貢献し、
リーグ優勝の力となります。

2002年、先発ローテーションの一角に入り8勝、
2003年にはチーム最多となる15勝、
2004年は初の開幕投手を任され、球団新記録となる
開幕12連勝を達成するなど、一気に不動のエースにまで
登り詰めると、

最終的に15勝2敗の好成績で最多勝と
最優秀投手のタイトルも奪取。
アテネオリンピック日本代表「長嶋ジャパン」に選出され
銅メダルを獲得し、
オールスターゲームのファン投票トップ当選
するなど
チームの枠を超えて、球界のエースに成長したのです。

プロ野球再編問題で、誕生した新球団、
東北楽天ゴールデンイーグルスの
開幕投手を任せられ、1失点完投、
球団初の勝利投手として歴史に名を刻むと

2008年には、4度目の開幕投手を皮切りに勝ち星を量産、
1985年の佐藤義則以来23年ぶりに21勝を挙げ、防御率1.87、
なんとチームのシーズン65勝のうち、3分の1を1人で挙げる
という快挙でした。

チームは5位であったにも拘らず
沢村賞、ベストナイン、最優秀バッテリー賞など、
投手関連の主要な賞を独占し、オフには
3年総額10億円の複数年契約を結ぶなど、最高の
シーズンとなりましたが、まだまだ岩隈の活躍は
止まりません。

2009年、第1回ワールド・ベースボール・クラシックの
日本代表として、松坂大輔、ダルビッシュと三本柱を任されると
初代チャンピオンの栄冠に輝き、
2006年の荒川静香以来となる宮城県民栄誉賞も授与されたのでした。

2010年オフ、日本で敵なしとなった岩隈は
いよいよメジャーリーグを視界にとらえて
ポスティングシステムによるメジャー挑戦を表明します。

オークランド・アスレチックスが入札価格1910万ドルで交渉権を獲得し
交渉の席につきますが、岩隈サイドの希望年棒が7年1億2500万ドル
だったのに対して、
アスレチックス側の提示額は4年1525万ドルと開きがあり、
契約合意には至りませんでした。

2011年は日本に残留して5年連続となる開幕投手を
務めると、その年のオフ、今度は海外FA権を行使して
再度メジャーに挑戦、
シアトル・マリナーズと年俸150万ドル、
出来高340万ドルの1年契約で海を渡る事に
なります。

入団当初、チームトレーナーが岩隈は、
右肩の筋肉が弱く、
先発での中4日は難しいと判断したことから、
中継ぎや敗戦処理のような起用が多くなり
ましたが
近鉄時代は、なにわのプリンス、
楽天時代は、杜の貴公子と呼ばれた
スマートなイメージからは
想像もできない負けん気で
先発を任されるまでに
はい上がってやると心に誓います。

実際、メジャーリーグ初登板は、
4月20日のシカゴ・ホワイトソックス戦、
6回から3番手としての登板でした。

その後も先発ではなく
中継ぎ中心の起用が続き、
メジャー初セーブもあげるなど
コツコツと結果を出し続けた事で

開幕から3カ月が経過した、7月2日、
ボルチモア・オリオールズ戦でいよいよ
メジャーリーグ初先発の機会を手に入れました。

打順にはイチローと川崎宗則も
入っており、日本人3人が1チームのスタメンに
名を連ねたのです。

先発として、能力の高さを首脳陣に理解させた岩隈は
後半戦から先発ローテーション入りすると、
最終的には先発で
16試合に登板し8勝4敗、防御率2.65の好成績を上げ
2年総額1400万ドルでマリナーズと契約を
延長しました。

翌2013年は、開幕から先発ローテーション入りして
本来の実力を発揮、
開幕から18イニング連続無四球や、9試合連続でのクオリティ・スタートを
記録するなど安定した投球を続け、シーズン通して、
リーグ7位の14勝、防御率2.66、サイ・ヤング賞投票では3位に入る活躍を見せました。

2014年もメジャー自己最多の15勝をはじめ、
芸術的なクイックモーションを武器に、
1度も盗塁を成功させなかった、被盗塁成功率0%を
記録するなど、2014年メジャー最高の先発9投手
に選ばれたのでした。

契約最終年の2015年8月12日には、
日本人選手としては、2001年の野茂英雄以来2人目となる
ノーヒットノーランを達成します。

マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドでの
オリオールズ戦、4回に2四球で2アウト一塁、二塁のピンチを
招きますが、ジミー・パレデスを三振に仕留め、
八回にも先頭のジョナサン・スコープを四球で歩かせ
ましたが、
後続を併殺打に打ち取るなど、切り抜けていきます。
岩隈自身、100球くらいで変えてくれたら
嬉しかったと語っていますが、そのまま続投、
9回を無安打、3四死球、7奪三振で快挙達成となりました。

116球目の最後のボールが、
この試合の最速149キロの速球という気力の勝負を制し、
最終的にはシーズン通して
メジャー自己最多更新となる16勝と抜群の安定感でした。

オフにマリナーズと再契約した岩隈でしたが、
2017年、右肩の手術を受けたことから
不本意なシーズンとなり、

翌2018年も、マイナーリーグで調整を続けていましたが
復調の兆しが見えてきた、その年のオフ、
読売ジャイアンツと契約して
日本に帰国することとなりました。

マリナーズを去る時には、キングと呼ばれたエース右腕
フェリックス・ヘルナンデスは「偉大な男」と敬意を表し、

スコット・サーバイス監督は
「クマは戦士だ。調子が良くない時も活路を見出し、
相手打線に対して策を練り、抑える。
本当にピッチングを知っているんだ」とその精神力を称えたのでした。

帰国後の2019年、2020年は
右肩の状態から思うように投げられずに
現役引退を決断したのでした。

引退後の2021年1月12日、古巣のシアトル・マリナーズから
特任コーチとして就任することが発表され、
同チームに在籍している日本人投手、
菊池雄星らの指導にあたっています。

近鉄時代は右腕をダラリと垂らす独特のタメをつくって
一気にスリークォーターから投げ込んでくる最速154kmの
フォーシームやツーシーム、さらに球速や変化の違う
100km台のスローカーブと大きく縦に曲がる2種類のスライダー、速球とほぼ同じリリースポイントから
正確に低めに投げることができる
メジャー最高の決め球のひとつに挙げられた
ウイニングショット、フォークボールを
武器にしていました。

それだけでも十分すぎるほどですが、岩隈はさらに
とんでもない武器をいくつも持っていました。

メジャーのスカウトから、狙ったスポットに投げる能力と
球を低めに集めるコントロールはダルビッシュより格段に上だ、
と評価され、アウトの65パーセント近くをゴロで稼ぎ、
1試合にファーボールは1個までしか出さないとデータにも
表れている、その制球力です。

捕手のズニーノは、彼はボールを自在に操り、狙ったところから
半インチ以上外すことはない、と語り、
14勝を挙げた時点で、出したファーボールが14個、
35回2/3連続無四球を記録するなど、精密機械と称される制球力に加え

1イニングあたりの球数が14球と、
大リーグで三本指に入るほど少ない球数で
バッターを料理、打者が気が付いた時には打ち取られた後だった
と言われるスマートさから「催眠術師」の異名も執りました。

また岩隈は分析力もずば抜けていて、

メジャーのバッターにはパワーでは勝てませんので
コントロールで勝負することが必要です。と、
ツーシームを多投、特に右打者に対して、
アウトコースのボールゾーンから
ストライクに変化させて、カウントを稼ぐなど
メジャー流にスタイルを変化させていきます。

メジャーの投手は走り込みはしないのになぜ
ピッチャーとしての持久力を持っているのか?
を考えた
結果、アメリカの中4日の起用法が自然と
スタミナがつくようになっていると発見した事で
今までランニングにあてていた時間を
筋肉や体幹の強化、
休憩にあてる調整法にアジャストしたことで
メジャーリーグ成功を手にすることが出来たのです。

複数の球種を途中まで同じ軌道で投球することで、
打者は球種の判断が難しくなる「ピッチトンネル」という概念が昨今、
メジャーリーグで流行していますが、

岩隈の高速で手元で小さく変化する
カットボールやツーシームを駆使して
ゴロで討ち取るテクニックはその先駆けだったのです。

そして楽天時代の同僚、中谷氏は、岩隈の凄さは
自分のやっていることは正しいと信じられる力、
メンタルの強さだと語っています。

甲子園には行けず、ドラフトは下位指名、
球団の合併により所属先の決まらない時期や
岩隈問題と言われたポスティング制度の不備に
より、メジャー移籍が叶わない不運を
経験しながらも、決して腐らず、

マリナーズ移籍後は中継ぎや敗戦処理からの
スタートでしたが堅実に一歩一歩、
泥臭く前に進み、逆境から這い上がってきたのです。

その姿は
190センチの長身からバンビちゃんと呼ばれ
東北のステキなお父さんを選ぶ
「第1回ベストファーザー in 東北」に
選出されるほど、甘いマスクと優しい人柄からは
想像もできないほど。

アメリカのメディアには
最も過小評価されている大投手の一人と
紹介された偉大なピッチャー、岩隈 久志

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、世界で戦った
偉大なサムライたちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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