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【岩村明憲】当時の弱小球団デビルレイズを日本から来た侍が何苦楚魂でチームの精神的支柱となり、ワールドシリーズまで登りつめる球団に成長させたリードオフマン

割引あり

おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、岩村 明憲(いわむら あきのり)さんを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=Pr68jyObS_E&t=368s

愛媛県の中学時代は二塁手(にるいしゅ)でしたが宇和島東高校(うわじまひがしこうこう)に進学すると
捕手(ほしゅ)にコンバートされ、1995年の全日本高校選抜の4番を務めます。

3年生の愛媛県大会前に右腕を骨折したことから急遽一塁手(いちるいしゅ)に
コンバートされ出場しましたが、準決勝で松山商業(まつやましょうぎょう)に敗れて
甲子園出場とはなりませんでした。

その年のドラフト会議でヤクルトスワローズから2位指名を受け入団、
プロ1年目は一軍出場はありませんでしたが、
2軍で打率3割をキープ、2年目となる1998年5月19日、
横浜ベイスターズ戦で初めて一軍スタメンで出場、
サードを守りました。

ヤクルトの三塁手(さんるいしゅ)には、豪快なスイングから「ブンブン丸」の異名で
人気者を博した池山 隆寛(いけやま たかひろ)がいましたが

衰えの見えてきた池山を若松監督(わかまつかんとく)が説得、3年目の岩村を三塁手のレギュラーに
大抜擢すると、その期待にこたえて、ゴールデングラブ賞受賞に打率2割7分8厘、
18本塁打(ほんるいだ)、66打点、13盗塁と、一気にその才能が開花したのでした。

翌2001年には ミスタースワローズの象徴、
背番号「1」を背負い、前年を上回る活躍をみせます。
打率2割8分7厘、18本塁打(ほんるいだ)、81打点で初のオールスターゲーム出場を果たし、
リーグ優勝に貢献すると、日本シリーズでは優秀選手賞にも選ばれました。

新ストライクゾーンとなった2002年には、大根斬りもマスターして
フル出場し、打率3割2分、23本塁打(ほんるいだ)でベストナインに選出され
リーグを代表する強打者に成長したのです。

2003年は右手首の故障などもあり、
思うようなシーズンではありませんでしたが、

2005年8月26日、横浜戦の前に母親が他界、若松監督から
帰郷するよう勧められましたが「プロとして目の前の試合を放棄できない」と
左腕に喪章(もしょう)を付け、「3番サード」で強行出場すると
2本塁打(ほんるいだ)を含む3安打4打点の大活躍を見せたのでした。

最終的にシーズン通して打率3割1分9厘、30本塁打(ほんるいだ)に102打点と
完全復活を遂げ、
第1回ワールド・ベースボール・クラシックの日本代表も経験したその年のオフ、
ポスティング・システムを行使して
メジャーリーグ挑戦を表明します。

タンパベイ・デビルレイズが455万ドルで交渉権を獲得、
岩村に対して3年総額770万ドルを提示して契約に至ります。

海を渡った当初は守備位置が決まらず内外野(ないがいや)ともに
守る可能性がありましたが
最終的には、三塁手としての起用が決まり、
4月2日、ヤンキースとの開幕戦でメジャー・デビュー初安打を皮切りに
9試合連続安打と好調なスタートを切りました。

メジャー2年目の2008年、エバン・ロンゴリアが三塁を守るチーム方針から
二塁にコンバートされましたが、いざ開幕すると、
5試合連続のマルチ安打を記録するなど不動の一番打者として
チームを牽引、

27歳以下の若手中心のチームは、数年後には強いチームに
なるだろうという下馬評を覆して、破竹の勢いで勝ち続けます

毎年ニューヨーク・ヤンキースとボストン・レッドソックスが
優勝争いをする最もハイレベルなア・リーグ東地区(ひがしちく)で、
春の珍事、いつか落ちると周囲は冷ややかな反応でしたが
首位を守り続けたのでした。

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