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ダレル・メイという男

割引あり

1972年、アメリカ合衆国カリフォルニア州に生まれた
メイは、サクラメント市立大学を卒業した1992年、
MLBドラフト46巡目でアトランタ・ブレーブスに指名されて
入団すると、3年後の1995年にメジャー初昇格を果たしますが
目立った活躍は出来ませんでした。

1996年にピッツバーグ・パイレーツを経由して
カリフォルニア・エンゼルスに移籍すると
3Aでノーヒットノーランを達成、
コーナーを丁寧に突く先発左腕として
頭角を現し、大きな期待が寄せられたのです。

翌1997年はメジャーで29試合に登板するなど
道が開けてきた25歳の若者に
チーム再建のために伸びしろのある若い助っ人を
求めていた阪神タイガースが目をつけて交渉を開始すると
身長188センチ、体重77キロのサウスポーは
海を渡ってきたのでした。

シーズン開幕直前に契約した将来性のある助っ人は
1998年4月15日に来日しましたが、時差ボケを理由に
初練習は拒否、翌日は30分のウォーミングアップに
参加したものの、吐き気を訴えて
早々にギブアップするなど一抹の不安を感じさたのです。

調整を兼ねて登板したウエスタンリーグでも
17イニング投げて19安打11失点と散々な結果に
マスコミは「使い物にならないダメ外人」と
酷評しましたが、湯舟(ゆふね)や弓長など
一軍の先発左腕が相次いで離脱したために
昇格させざるを得ない状況に陥りました。

5月24日の横浜戦で初先発の機会を得たメイは
このシーズンで優勝を飾ったマシンガン打線相手に
5回3安打3失点とまずますのスタートを切ると
3度目の先発となった6月6日には完封で
日本初勝利を飾ったのです。

「メジャーで勝った時はホッとした気持ちが
大きかったけど、今日は本当に嬉しいね」と喜んだ助っ人は
そのまま先発ローテーションに定着、
安定したピッチングを見せましたが
打線の援護に恵まれず、防御率3.47ながら
21試合で4勝9敗という成績に終わりました。

来日2年目の1999年は野村監督が就任して
新体制となったチームの中で、前年、好投した
左腕に大きな期待が寄せられましたが
少しづつ、人生の歯車が狂い始めます。

5月29日、東京ドームで行われた読売ジャイアンツ戦で
後に日本アメリカ両国でチームメイトになる
松井秀喜と対戦すると、5回裏、一打同点の場面で打席に立った
巨人の3番に対して投じた1ボールからの2球目、
「あれは間違いなく狙ってきた」と
普段は感情を露わにしない松井が激昂した内角速球が
右肘に直撃しました。

バットを放り投げて歩み寄る松井に対して
「喧嘩上等」とにらみ返して距離を詰めてくる
助っ人は一触即発の状態に。
審判が止めに入って事なきを得ましたが、
1か月半後の7月18日、同じく巨人戦で、
今度は審判とやり合ったのです。

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