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五十嵐 亮太という男

割引あり

世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、五十嵐 亮太(いがらし りょうた)さんを取り上げていきます。

北海道でアルペンスキーの国体選手だった父と、
元ヤクルトスワローズ監督の若松氏と同じ、
北海道留萌(るもい)中学校出身の母との間に生まれた五十嵐は
小学生の時に千葉県へ転校すると、野球に出会います。

中学生までは一塁手でしたが、進学した
敬愛(けいあい)学園高校野球部の監督から
肩の強さを買われ投手へ転向、
すぐに県内屈指の豪腕投手と呼ばれるようになりました。

1997年、ヤクルトスワローズからドラフト2位指名を
受けて入団、1年目からファームでのリーグ優勝決定戦で
6回まで完全試合ペースの投球を続けるなど
その実力を発揮、高卒ルーキーでは史上初の
ファーム日本選手権MVPも獲得します。

2年目の4月20日に1軍初昇格を果たすと
5月27日にはプロ入り初勝利を達成、
すべて中継ぎでの登板でしたが、最速154キロをマークして
シーズン6勝をあげ、3年目は開幕から1軍で
フル稼働する事になります。

4月だけで3勝1敗を皮切りに、前半戦を終えた時点で
中継ぎのみの登板にもかかわらず11勝を記録。
オールスターゲーム初出場を果たしただけでなく
古田敦也と最優秀バッテリー賞にも選ばれたのでした。

2001年は肉離れや右肘痛とケガに悩まされながらも
防御率2.59と自己最高を記録、

2002年には同僚の石井 弘寿(いしい ひろとし)と共に
二人揃って速球を連発して抑えの高津へつなぐ事から
ロケットボーイズの愛称で親しまれ、不動のセットアッパーコンビを確立。
最終的に防御率2.08という成績を残したのでした。

2003年も勝利の方程式として奮闘すると翌2004年、
チームの絶対的な守護神であった高津のメジャーリーグ移籍により
抑えに大抜擢され、9月20日の阪神戦で158キロを3球連続で計測するなど
球界の速球王として君臨、シーズン通して
37セーブをあげて最優秀救援投手に輝きました。

2005年も抑えとして49試合に登板しましたが
2006年、右肘靭帯断裂(みぎひじじんたいだんれつ)が発覚、
トミー・ジョン手術に踏み切り
2007年は1年間をリハビリに費やすことになりました。

2008年、開幕戦ですぐに154キロを記録して復活すると
9月20日の横浜戦では157キロまで球速が戻り、2年半ぶりのセーブを
挙げた翌年のオフ、

クローザー林昌勇(イムチャンヨン)へつなぐ
不動のセットアッパーとして約束されたポジションを捨て
メジャー挑戦を表明、海を渡ったのです。

抑えのフランシスコ・ロドリゲスにつなぐ右の
セットアッパーを探していたニューヨーク・メッツと
2年総額300万ドルで契約すると
4月8日のフロリダ・マーリンズ戦でメジャー初登板、
2点ビハインドの7回から1回を投げて無失点と
上々のデビューを飾ります。

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