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【ネイサン・ミンチー】2メートルを超える身長から投げ下ろしてくる投球スタイルでMLBドラフト2巡目という高評価で入団 来日後は中4日で投げまくるタフネスぶりを発揮 セパ両リーグで開幕投手を任された右腕

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、ネイサン・ミンチーを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=Qqsmz5L5WrI

1969年、アメリカ合衆国テキサス州で生まれた
ミンチーはフルーガービル高校時代から
身長2メートルを超える大型投手として注目され
卒業した1987年、MLBドラフト2巡目という高評価で
モントリオール・エクスポズから指名を受け
入団しました。

1巡目トップでシアトル・マリナーズから
指名を受けたケン・グリフィー・ジュニアらと
同様、上位指名選手としてその期待は大きく
ルーキー・リーグでメジャー昇格を目指して
奮闘しますが思うように力が発揮できないまま
ボストン・レッドソックスへ移籍します。

6年の歳月が過ぎようとしていた1993年
優勝の可能性が無くなったシーズン終盤では
ありましたがチームメイトの
ティム・ウェイクフィールドから
伝授されたナックルボールも武器にして
頭角を現すと、ようやくメジャー昇格の
チャンスを掴みました。

最終的に5試合に先発して1勝2敗、防御率3.55と
まずまずの結果を残して迎えた翌年、
6試合の登板機会を得ましたがメジャー定着
には至らず、コロラド・ロッキーズに移籍します。

1997年、3Aのコロラドスプリングスで
27試合に登板して15勝6敗、
3Aオールスターゲームにも選ばれるなど
好成績を上げた事で再びメジャーに昇格しましたが
2試合の登板で防御率13.50という不本意な成績に、
これまでも何度か誘いのあった
日本球界への入団を考え始めたのでした。

ちょうどその頃、三村監督のもと、
野村、前田、江藤、金本ら
ビッグレッドマシンと呼ばれた12球団
最強の打線で攻撃的な野球を展開していた
広島でしたが、ディフェンス面では
先発不足など投手陣の崩壊に頭を
悩ませていた事から
打者を見下ろしながら投げる
完投能力の高い長身投手に
白羽の矢を立て交渉を開始します。

すると
ミコライオ来日まで球団記録となる
身長203センチ、体重118キロの巨体は
「アメリカとは違う文化の国で
プレーしたい」と
契約金無しの年俸5200万円で
海を渡ってきたのでした。

28歳とまだ若く脂の乗り切った助っ人は
キャンプインと同時に
マスターし始めた日本語で積極的に
チームメイトとコミュニケーションを取り
母国の家族とは小脇に抱えたノートパソコンで
メール連絡を欠かさないクレバーな背番号43は
ピッチングのほうでも、その能力を
遺憾なく発揮します。

レッドソックス時代から書き始めた
ミンチーノートと
いう名のメモには対戦打者ごとに配球と結果が
記され、打たれた場合には改善点や対策が
追記されていった
データを見ながら日本の打者への
投球を組み立てていくと
先発デビューとなったシーズン開幕2戦目、
9回139球2失点の熱投に広島首脳陣は
「打者も狙い球が絞れていなかったし
噂通りの完投能力、これはメドが立った」と
序盤からローテーションの柱として期待され
5月24日の巨人戦では三村監督に通算300勝を
プレゼントしました。

メジャースタイルの中4日(なかよっか)が好きだ、と
日本流ローテーション中6日(なかむいか)を拒否して
ガンガン投げまくる大型右腕は最終的に
リーグ最多の35先発をこなし、投球回数はダントツ1位の
236イニングとフル回転で
1年目から最多勝争いに絡む15勝11敗、
防御率はリーグ4位の2.75と大車輪の活躍を見せたのです。

迎えた翌1999年、達川氏が新しく監督に就任すると
球団助っ人最多勝利記録を打ち立てたミンチーに
開幕投手を任せますが、投げ過ぎの影響や他球団から
研究された事もあり2勝にとどまるも、完投能力の高さや
年俸の大幅ダウンを受け入れた事で残留した3年目の2000年。

佐々岡、黒田と右の3本柱を
形成し、6月には月間MVPを受賞するなどリーグ最多の
31試合に先発して12勝を挙げ、完全復活を遂げますが
シーズン終了後、1億円を超える年俸や
中4日の登板が他の先発投手の妨げになるという
理由から貴重な先発の柱であったにもかかわらず
解雇となりました。

しかし日本野球を熟知した計算できる先発投手を
他球団が放っておくわけもなく、広島同様、
先発の頭数不足に苦しんでいた千葉ロッテマリーンズが
獲得を表明、入団すると中4日で投げられる先発は
当然のように即主力となります。

シーズン通して30試合204回3分の1投球回に登板、12勝をあげたばかりか
防御率3.26で最優秀防御率のタイトルも獲得、
外国人初の両リーグ二桁勝利も達成しました。

計算のできるイニングイーターとしての安定感から
翌年は広島時代に続いて2度目の開幕投手に抜擢されると
外国人投手として2人目となるセ・パ両リーグでの
完封勝利を達成するなど、32試合で先発登板、
投球回リーグ2位の西武、西口文也の182回を大きく上回る
230回3分の1投球回とぶっちぎりのトップで
15勝14敗、防御率2.85の成績を残し、相変わらずの
スタミナモンスターぶりを発揮します。

チームの絶対的エースとなった2003年も開幕投手を
務めると30試合に登板して14勝9敗、4年連続二桁勝利を
達成、マリンスタジアムではロッテリアの
メンチカツバーガーはミンチー勝つバーガーとして
発売が決まるほどの負けない投手でしたが
翌2004年、山本功児監督に代わり
バレンタイン新監督の就任が決まると暗雲が立ちこめました。

中4日登板を認めないバレンタイン監督と起用法を巡って
意見が衝突、開幕投手も清水直行に譲ると
中6日登板では投球内容が著しく低下したうえ、
夏場には右ヒジの遊離軟骨除去手術を受けるなど
故障も重なり4勝に終わったことから契約延長を勝ち取れず
解雇となります。

すると同年オフ、パ・リーグに
新規参入した田尾監督率いる東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得を
検討し入団交渉を行いましたが
2億5000万円という高額年俸と35歳の年齢が
ネックとなり契約は見送りに。
現役続行が白紙となったことから
日本通算187試合、74勝70敗、防御率3.64の長身は
引退の道を選びました。

現役時代から
「将来は移動距離が長いマイナーリーグのコーチより
スカウトをやってみたい」と語っていた通り、
日本球界7年の実績を買われて、2007年から
クリーブランド・インディアンスの日本担当スカウトに就任すると
ロッテ時代のチームメート、幕張の防波堤こと、
小林雅英(こばやしまさひで)を獲得します。

さらに2009年からは巨人の国際スカウトとして
中(なか)地区と西地区を担当、東地区を担当する
セ・リーグ出身初の日本人メジャーリーガー
柏田貴史(かしわだたかし)とともに
日本で成功する新外国人発掘を任されました。

常に握りを変えながら打者の手元で微妙に
動く140キロのムービングファストボールを
低めにコントロールし、
落差の大きいカーブにスライダー、
決め球のシンカーやチェンジアップなど
多彩な変化球も操る投球術は日本の野球に
ピッタリとハマったのです。

「打者一人に対して4球以内で勝負を
決めようと思っていた」の言葉通り、
打者に考える暇を与えない速いテンポで
どんどん低めにボールを集めてくるスタイルに
広島時代にチームメイトだった笘篠賢治氏は
「内野手は忙しかったけど本当に守りやすい投手」
と絶賛するほど、ゴロの山を築いていきました。

松坂大輔の才能に惚れ、自身の第3子に
「ケーシー・ダイスケ・ミンチー」と命名するほど
日本の生活も気に入っていた長身右腕は
「異国の文化や生活を楽しめない外国人選手は
仕事にも影響して良い結果が残せずに帰国することが多いね。
私は家族と東京観光に行ったり日本ライフを
エンジョイしていたから6年も滞在できたんだろうね」
と成功の秘訣を語っています。

決して強くないチームに在籍しながらもクレバーな投球で
5度の2ケタ勝利に3度の開幕投手を務め、
外国人投手では史上初めての両リーグ2ケタ勝利を達成、
戦力不足のチームを浮上させようと、
ひとり投げまくった史上屈指のタフなスタミナお化け、
ネイサン・ミンチー

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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