見出し画像

デストラーデという男

割引あり

1962年、フィデル・カストロ統治時代のキューバで産まれた
デストラーデは、5歳の時、家族とともにメキシコを経由して
ニューヨークに住む叔父を頼りにアメリカに亡命します。

生活は苦しいながらも父はタクシーの運転手、
母はスペイン語の教師として、お金を貯めると
亡命キューバ人のコミュニティがあるマイアミに引っ越しました。

9歳の時、のちにメジャーリーグで2度の本塁打王となる
フレッド・マグリフと出会い、野球を始めると
右で打っていた打撃を元々の左利きである
左打ちに変更しましたが、
今度は左投手の変化球に苦しんだことから
左投手の時だけまた右打ちに戻した事で
スイッチヒッターとしての礎が完成します。

進学したフロリダ短大では58試合で23本塁打の
シーズン記録を更新、この活躍が注目され、
1981年、ニューヨーク・ヤンキースと契約しましたが
右足の靭帯断裂など大ケガに見舞われ、8年間の
マイナー生活を余儀なくされました。

1988年、ピッツバーグ・パイレーツの3Aバッファロー・バイソンズ
に移籍すると4番として活躍、その情報を聞きつけた
中日ドラゴンズや近鉄バッファローズ、さらに
子どもの難病治療のため途中退団した
ランディ・バースの代役を探していた阪神タイガースの
3球団からオファーが届きましたが
「出場機会が少なくストレスを抱えていたけど
それでもメジャーでプレイを続けたかった」と
契約には至りませんでした。

しかし迎えた1989年のシーズンが開幕してもパイレーツで
チャンスが訪れることはなく、失意の中にいた
デストラーデに、絶好のタイミングで声がかかります。

3年連続チャンピオンとして王者に君臨していた
西武ライオンズでしたが5月の時点で首位の近鉄に11.5ゲーム差を
つけられて低迷、その要因の1つでもあった不振の助っ人
バークレオの後釜としてデストラーデに
白羽の矢を立てました。

代理人から「今、日本の西武ライオンズに行けばチャンスはある」
との言葉を受け、27歳と脂が乗っていながら出場機会に飢えていた
ハングリーな若きスイッチヒッターは妻と相談、日本で挑戦する事を
決断して年俸3250万円で海を渡ってきたのです。

ここから先は

2,423字

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!