見出し画像

【レジー・スミス】勝負強い打撃と広い守備範囲でメジャートップクラスのスイッチヒッターは読売ジャイアンツで若きナインの先生となり超一流の振る舞いと打撃論を説き 本物の大リーガーの風格を感じさせた助っ人

割引あり

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回はレジー・スミスを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=467CYg7tfSI&t=766s

1945年、アメリカ合衆国ルイジアナ州で生まれた
レジー・スミスは、センチネル高校を卒業した1963年、
ドラフト外でミネソタ・ツインズと契約を結び、
プロの世界に飛び込みましたが
有望な若手選手が十分な活躍の場を与えられず
傘下のマイナーリーグで飼い殺しになる事を
防ぐために作られた
ルール・ファイブ・ドラフト制度の対象となりました。

その制度によりボストン・レッドソックスに移籍した
1966年9月18日、エンゼルス戦に3番レフトで
メジャーデビューを果たすと6日後の
ニューヨーク・ヤンキース戦では1番センターを
任された初回に
ジム・ロンバーグから初安打も記録します。

ボストン一筋23年、最後の三冠王と呼ばれた
カール・ヤストレムスキーを中心とした攻撃陣の中で
勝負強い打撃と広い守備範囲が魅力的な
スイッチヒッターとして頭角を現すと
翌年にはレギュラーを奪取、
のちに首位打者7回、15年連続、打率3割の
安打製造機こと、若き日のロッド・カルーに
次ぐ新人王争い2位の活躍を見せました。

その後もチームの主軸として
ゴールデングラブ賞獲得や
9位からリーグ優勝を成し遂げた
インポッシブルドリームの立役者として
活躍を続けていた1973年のオフ、
複数の選手がからむ大型トレードにより
セントルイス・カージナルスに移籍します。

ナ・リーグ移籍後もその打撃は変わらず
両リーグで100本塁打というメジャー記録を樹立、
黄金期を迎えていたロサンゼルス・ドジャースへ
移籍した後もクリーンナップに座り、年俸は
キャリアハイの22.5万ドルに到達したうえ
チーム記録を塗り替えた長打率は
5割7分6厘を記録しました。

これはスイッチヒッターとして
ミッキー・マントルに次ぐ長打率であり
外野の守備ではリーグ屈指の強肩と謳われ、
名将ラソーダ監督率いるドジャース1の人気者
スティーブ・ガービーとともに
活躍した1981年、少しづつ衰えは見え始めましたが
ワールドチャンピオンも経験します。

その年のオフ、ドジャースとの契約が終了し
新たなチームを求めて
サンフランシスコ・ジャイアンツと
ニューヨーク・ヤンキース、さらに
読売巨人軍の3チームと交渉を開始しましたが
ヤンキースは指名打者専用の起用法を
提示してきた事に加え
名物オーナーのジョージ・スタインブレナーを
個人的に好きではないと言う理由も相まって
2チームに絞られました。

シーズン前、術後のリハビリ中だったスミスは
キャンプ地ベロビーチで行われた巨人との
合同練習を見学した際、
首脳陣と接触して日本に興味を
持った事から何度か交渉の席につきましたが
当時は外国人選手は2名までの
ルールの中、読売にはロイ・ホワイトと
ゲーリー・トマソンの助っ人2人が在籍しており、
さらに大金をはたいて獲得したトマソンは
諸事情により、二軍には送れず交渉を断念します。

最終的にサンフランシスコ・ジャイアンツで
プレーする事になった1982年8月25日、
シカゴ・カブス戦に4番ファーストで先発すると
7回にランディ・マーツ投手から
ホームランを叩き込んで
2000本安打も達成しましたが
その年のシーズンオフ、FA権を獲得したスミスは
退団したホワイトの後継者として
読売ジャイアンツとクリスマスイブに契約、
1年前から代理人を通じて交渉を続けてきた
身長182センチ、体重88キロの
超大物スイッチヒッターは37歳にしてようやく
海を渡って来たのでした。

ここから先は

4,228字

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!