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【ジョン・シピン】フィリピンの血が流れる陽気な野生児は見知らぬ東洋の国へ行ってみるかと日本にやって来ると自由奔放なライフスタイルで人気者になり帰国後は不動産王として成功した助っ人

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、ジョン・シピンを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=RLXV7Nz4ckM

1946年、アメリカ合衆国カリフォルニア州で
フィリピン人の父とポルトガル人の母の
間に生まれた
本名ジョン・ホワイト・シピンは
サンタクルーズ海岸に面した温暖な気候の中、
日本人、中国人、イタリア人など
多彩な民族が集まる街で幼少期を過ごしました。

ワトソンビル高校からカブリロ大学を経た1965年、
その強肩と強打を買われて
セントルイス・カージナルスからドラフト55巡目で
指名を受けると
ルーキーリーグで11年後、日本にやってくる
レロン・リーとチームメイトになりましたが
1969年、MLBのリーグ拡張が決まった事から
数奇な運命が動き出したのです。

チームの首脳陣から有望視されていた
シピンでしたが
新チームとして加盟したサンディエゴ・パドレスに
エクスパンション・ドラフトでトレードされると
MLBに昇格、二塁手として68試合に出場したものの
ヒッピーのようなファッションに
奔放なライフスタイルが監督に受け入れられず
1971年、マイナーリーグの
ハワイ・アイランダーズに落とされました。

するとその年のシーズンオフ、
教育リーグを視察に訪れていた
大洋ホエールズのスカウト牛込氏のもとに
パドレスの担当者から
「選手を探しているなら
いい内野手がいる、出してもいいぞ」と
持ち掛けられた事からすぐに資料をチェック、
マイナーとはいえ
本塁打20本以上、打率3割を打っていた右打者に
白羽の矢を立てたのです。

しかし当の本人は
「子供の頃に仲が良かった日系の男の子も
マイク・ウシゴメだったな。懐かしい苗字だ。
将来もし日本へ行く事があれば
必ず大洋に入りたいが
今はまだ大リーガーになる
夢を諦めていないんだ」と
その気が無かった事から、まずはパドレスに
2万5千ドルのトレードマネーを支払い
外堀を埋めると
同期入団の新外国人ボイヤーにも
「あいつはパワーのあるいい選手。
ぜひ獲った方がいい」と太鼓判を押された球団は
相場の3倍以上となる年俸3万5000ドルを提示、
「まあ見知らぬ東洋の国へ行って
野球をするのも悪くないか」と
身長183センチ、体重73キロの助っ人は
海を渡って来たのでした。

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