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【五十嵐亮太】そのスピードボールに魅せられたファン多数!プロ野球界ナンバーワンのイケメンぶりに魅せられたファン数知れず!勝利の女神も惚れた剛腕リリーバー!凱旋帰国後も最も成功した右腕

おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、五十嵐 亮太(いがらし りょうた)さんを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=ZHOu5mRnjUA&t=106s

北海道でアルペンスキーの国体選手だった父と、
元ヤクルトスワローズ監督の若松氏と同じ、
北海道留萌(るもい)中学校出身の母との間に生まれた五十嵐は
小学生の時に千葉県へ転校すると、野球に出会います。

中学生までは一塁手でしたが、進学した
敬愛(けいあい)学園高校野球部の監督から
肩の強さを買われ投手へ転向、
すぐに県内屈指の豪腕投手と呼ばれるようになりました。

1997年、ヤクルトスワローズからドラフト2位指名を
受けて入団、1年目からファームでのリーグ優勝決定戦で
6回まで完全試合ペースの投球を続けるなど
その実力を発揮、高卒ルーキーでは史上初の
ファーム日本選手権MVPも獲得します。

2年目の4月20日に1軍初昇格を果たすと
5月27日にはプロ入り初勝利を達成、
すべて中継ぎでの登板でしたが、最速154キロをマークして
シーズン6勝をあげ、3年目は開幕から1軍で
フル稼働する事になります。

4月だけで3勝1敗を皮切りに、前半戦を終えた時点で
中継ぎのみの登板にもかかわらず11勝を記録。
オールスターゲーム初出場を果たしただけでなく
古田敦也と最優秀バッテリー賞にも選ばれたのでした。

2001年は肉離れや右肘痛とケガに悩まされながらも
防御率2.59と自己最高を記録、

2002年には同僚の石井 弘寿(いしい ひろとし)と共に
二人揃って速球を連発して抑えの高津へつなぐ事から
ロケットボーイズの愛称で親しまれ、不動のセットアッパーコンビを確立。
最終的に防御率2.08という成績を残したのでした。

2003年も勝利の方程式として奮闘すると翌2004年、
チームの絶対的な守護神であった高津のメジャーリーグ移籍により
抑えに大抜擢され、9月20日の阪神戦で158キロを3球連続で計測するなど
球界の速球王として君臨、シーズン通して
37セーブをあげて最優秀救援投手に輝きました。

2005年も抑えとして49試合に登板しましたが
2006年、右肘靭帯断裂(みぎひじじんたいだんれつ)が発覚、
トミー・ジョン手術に踏み切り
2007年は1年間をリハビリに費やすことになりました。

2008年、開幕戦ですぐに154キロを記録して復活すると
9月20日の横浜戦では157キロまで球速が戻り、2年半ぶりのセーブを
挙げた翌年のオフ、

クローザー林昌勇(イムチャンヨン)へつなぐ
不動のセットアッパーとして約束されたポジションを捨て
メジャー挑戦を表明、海を渡ったのです。

抑えのフランシスコ・ロドリゲスにつなぐ右の
セットアッパーを探していたニューヨーク・メッツと
2年総額300万ドルで契約すると
4月8日のフロリダ・マーリンズ戦でメジャー初登板、
2点ビハインドの7回から1回を投げて無失点と
上々のデビューを飾ります。

1週間後のコロラド・ロッキーズ戦では156キロを記録するなど
順調なスタートを切りましたが、その後はハムストリングスの
故障などに苦しんだシーズンとなりました。

五十嵐は、
日本のように寮やホテルが用意され、衣食住に困らない
環境が保障されている契約ではなく、
キャンプ地で生活する家も自分で探さなければならないし、
もちろんキャンプ地にも現地集合。
自分でどんどん考えて行動していかないと
取り残されてしまうという状況に意識変革を迫られました。
全部自分で決めなければいけない。
ここは自分で選択する国なんだと思いました。と語っています。

2年目はAAA(トリプルエー)のバッファローで開幕を迎えると
防御率0.94と好投、4月11日にメジャー昇格、
4勝1敗の好成績を残しますが、
自慢のストレートと数少ない変化球だけでは
勝負にならないと、2年目の終盤にはカットボールという
新たな武器を習得します。

持ち球を増やそうと日本でも練習しましたが
結局モノにできませんでした、自分に合わない球種だったんだと
諦めの言葉を見つけて無理やり納得していましたが、
アメリカではそんな事は言っていられない、必死で覚えました。
やらざるを得ない状況に追い込まれたら、
人は出来るようになるんです。と、進化求め続ける剛腕は
この年のオフ、ドミニカ共和国ウィンターリーグにも参加。
スライダーもマスターし、進化を遂げていきます。

3年目はピッツバーグ・パイレーツと契約を結びましたが
メジャーに上がるために最善の道を模索した結果、
トロント・ブルージェイズに移籍、
AAA(トリプルエー)のラスベガスで防御率1.29、最速99マイルを記録して
5月25日、メジャー昇格を果たします。

さらにその4日後、今度はニューヨーク・ヤンキースへ
移籍した事で新たな魔球を手に入れることになりました。

ヤンキースのコーチからナックルカーブ覚えるように
言われた五十嵐は
そんな球、投げられないと思いながらも、いいから投げてみろ
と無理やり押しつけられたために練習を繰り返すと
次第に投げられるようになり、

アメリカに来てトライすることへの恐怖心が
取り除かれたような気がします。
これまでの常識や思い込みを捨てて
どんどん考えて実行していくしかありません。と
マスターしたこの魔球は、翌年、日本球界に復帰した際の
新たなウイニングショットになりました。

2012年11月16日、福岡ソフトバンクホークスと3年総額6億円で契約、
4年ぶりに日本球界に復帰、
2013年、6月22日から7月3日にかけて5試合連続のホールドを記録すると
7月9日の西武ライオンズ戦では帰国後初セーブも挙げます。

その後は主にクローザーとして起用され、20試合連続無失点など
安定した成績を残しながら、通算50勝目を達成。

翌2014年は、守護神デニス・サファテの加入により
セットアッパーを任されると、600試合連続救援登板や
通算100ホールドを達成するなど3年ぶりのリーグ優勝
に貢献、さらに進出した日本シリーズでも勝利投手となりました。

2015年もセットアッパーとして期待通りのピッチングを見せ
3勝1敗、31ホールド、2セーブ、防御率1.38と
チームの日本シリーズ連覇に貢献した年のオフ、
3年連続で50試合以上登板、計86ホールドの実績が
認められ、2年契約、年俸3億5000万円のオファーを受け
残留しました。

翌2016年も、開幕から貴重なリリーフとして
通算141ホールドを記録するなど
順調なスタートを切りましたが、練習中に左太ももの
肉離れをおこした事で、戦線離脱を余儀なくされました。

そんな状況でも五十嵐の進化と変化を求める
飽くなき向上心は尽きることがありません。

まだまだ変化球を覚えたいとメキシコのウインターリーグに
自主参加。中4日で先発も経験しながら
プロ20年目にしてチェンジアップの習得に取り組んだ結果、
翌2017年、開幕3戦目で初勝利を掴むと
最終的に6勝0敗、11ホールド、防御率1.73を記録する活躍で
2年振りのリーグ優勝および日本一奪還に貢献したのでした。

古巣ヤクルトへの移籍が決まった2019年シーズンは
開幕からフルスロットル!
4月はなんと救援登板のみで5勝を挙げるなど
45試合に登板して防御率2.98を記録しましたが
その後はケガに苦しみます。

抑えるためなら何にでも挑戦すると、2軍戦で
サイドスローも試したほど、最後まで
現役続行を模索しましたが、イメージと体の動きが
合致しなくなったと、
2020年8月、現役引退を発表、ラスト登板となった
10月25日の中日戦で8回に登場すると、
2012年ブルージェイズ傘下ラスベガスで
チームメイトだったモイゼス・シエラを
五十嵐の代名詞、真ん中高めストレート
わずか1球でサードゴロに仕留めたのでした。

引退後は幼い頃から親しんでいたにも関わらず、
日本では大怪我を負うリスクから封印し、
アメリカでは契約条項で禁止されていた
スキーを思いっきり楽しんだり、
バイク免許を取得してツーリングに出掛けたりと
やりたかった事を1つづつ叶えているそうです。

ただ引退に関して五十嵐は、
引退したら野球をやっちゃいけないわけじゃない
やりたくなったらまたやればいい。
ヤンキースで同僚だった256勝の大投手、アンディー・ペティットは
現役引退を表明した翌年に復帰しましたし
メッツでチームメートだった
イズリングハウゼンも手術後、まだ投げられそうな気がすると言って
復活しました。
アメリカで型にはまらない発想を経験したことで
自分でも柔軟性が生まれた気がします、と語っていて、
またどこかで投げている姿を見られる日が来るもしれません。

担ぐように振りかぶり、スリークォーターの角度から
押し出すように投げる独特のピッチングフォーム。
あえて腕を畳んだまま最小の半径で腕を振る事で
生み出される最速158キロの剛速球と
平均138キロの高速フォークで奪った多くの三振。

クイックモーションも1.1秒台前半と非常に速く、
日本球界復帰後はナックルカーブやカットボールも
使いながら、常に探求心を忘れず、
毎年進化し続けた事で、23年にもおよぶプロ生活を
生き抜いてきたのです。

日本で一緒にプレーした外国人選手たちが
日本人はみんな同じような投げ方をすると言っていましたが
メジャーに行って確かに特徴的な選手が多いと思いました。
それは育成方法に対するアプローチの違いだと思います。
日本の場合は悪いポイントを指摘して
そこを直していきましょうというところからスタートしますが
アメリカはまず良いところを褒め、その良さをさらに伸ばすための
ポイントを指摘するという発想でした。と語っているように、

変化することを恐れず、常により良いものを
求め続け、アメリカで身につけた変化球や経験で
メジャー帰りの投手としてNPBで最も成功した選手の
一人となりました。

繊細なタッチで描く絵のレベルは画伯と呼ばれるほど
非常に高く、
端正な顔立ちはアイドルグループSMAPの木村拓哉に
似ている事から、球界のキムタクと呼ばれ
横浜ベイスターズのマスコットガールをしていた妻と
買い物に行った際、エスカレーターですれ違った
他の買い物客から、木村拓哉と工藤静香に
間違われたほど。

しかしそのスマートな外見とは裏腹に、
セ・パ両リーグで日本一を経験した右腕は
メジャーにマイナーリーグだけでなく、
ドミニカやメキシコリーグにも参加、
トミー・ジョン手術も経験したほど、波乱万丈なものでした。

800試合以上投げて先発は1度もなく、すべてリリーフ。
抑えて当たり前、打たれたらニュースになるのが中継ぎの魅力だと
言う生粋のリリーバー。

日米通算906試合に登板、70勝167ホールド70セーブ、
防御率3.20、奪三振992。

リリーフ登板のみで前半戦11勝を記録したり
メジャーで記録した5勝すべてが、
3分の1イニングの登板という幸運ぶりから
「勝利の女神が惚れた男」と呼ばれた
リリーフ一筋の剛腕にして鉄腕、21世紀の元祖速球王、五十嵐亮太。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、世界で戦った
偉大なサムライたちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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