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ベン・オグリビーという男

割引あり

1949年、パナマ北部のコロン県で生まれた
本名ベンジャミン・アンブロシオ・オグリビー・パルマーは
ウェイン州立大学を卒業した1968年、
MLBドラフト11巡目でボストン・レッドソックス
から指名を受け入団すると
マイナーリーグの階段を順調に
駆け上がり、わずか
2年でメジャー昇格を果たしました。

しかし1971年は打率2割6分3厘、
翌1972年も打率2割4分1厘と
思うような結果を残すことができず
レギュラーとマイナーを行き来する
エレベーター生活の日々に加え、
この頃のレッドソックス外野陣は
ボストン一筋23年、最後の三冠王と言われた
カール・ヤストレムスキーに
読売ジャイアンツでもプレーする
メジャー通算314発のレジー・スミス、
さらにオグリビーの翌年に入団し
鉄壁の守備と強肩で
通算8度のゴールドグラブ賞を獲得した
ドワイト・エバンスらが在籍していたのです。

目の前に立ちはだかる高すぎる壁に
出場機会を十分に得ることができなかった
オグリビーでしたが1974年から
デトロイト・タイガースに移籍すると
一気に出場機会を増やして才能が開花、
代打ランニングホームランを記録した
翌1977年にはレギュラーとなり
132試合に出場、21本塁打を放ちました。

さらに翌年、ミルウォーキー・ブルワーズ移籍を
キッカケにもう一つ上のステージ、
超一流プレイヤーへの階段を登り始めます。

この年、打率3割を達成して迎えた1979年には
29本塁打を放って長打力も発揮すると
その名をメジャーリーグ史に刻む集大成の年、
1980年、
打率3割4厘、41本塁打、118打点の大爆発で
シルバースラッガー賞のほか
ア・リーグでは史上初となる
米国籍でないホームラン王となりました。

その後もブルワーズ不動のレギュラーとして
5番に座り
ハービー・キーン監督のもと1982年には
シーズン34本塁打のほか、
リーグチャンピオンシップシリーズでも
ホームランをかっ飛ばして
ワールドシリーズ進出に貢献します。

当時のブルワーズは
カクテルと監督の名前を掛け合わせて
ハーベイズ・ウォールバンガーズと呼ばれ、
ブルワーズ一筋20年、球団史上最高の
フランチャイズ・プレイヤー、ロビン・ヨーントや
3000安打、200本塁打、500盗塁を
達成した打線の火付け役、ポール・モリター 、
さらに
通算2472安打の殿堂入り捕手テッド・シモンズに
2度の本塁打王、ゴーマン・トーマスのほか
2度の打点王、セシル・クーパーら錚々たる
顔ぶれがスタメンに並んでいました。

最強ブルワーズのクリーンアップとして
活躍を続けていたオグリビーでしたが
打率2割9分、本塁打10本と少し衰えの
見えてきた1985年オフ、
西武ライオンズが年俸1億4000万円で獲得を
試みますが
「まだメジャーでやりたい」という本人の
強い意志に加え、もう一人の助っ人候補であった
ジョージ・ブコビッチ獲得が濃厚と
なった事から白紙となります。

翌1986年も103試合に出場して打率2割8分3厘と
そこそこの成績は残したものの、
10年連続2ケタ本塁打が途切れる5本塁打に終わり
チームも若返りを図っていたため、来シーズンに
オグリビーの居場所はないかと思われました。

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