見出し画像

リッチ・ゴセージという男

割引あり

今回は
リッチ・ゴセージを取り上げていきます。

1951年、アメリカ合衆国コロラド州に生まれた
リッチ・ゴセージは
シカゴ・ホワイトソックスからドラフト9巡目で
指名され入団した2年後の1972年、
メジャーデビューを果たすと、1975年には
クローザーに定着し、62試合に登板、
9勝8敗、防御率1.84に
リーグ最多の26セーブを記録して
オールスター戦にも初選出されました。

翌年は先発に転向したものの
防御率3.94、9勝17敗と大きく負け越し、
シーズン終了後に
ピッツバーグ・パイレーツへ移籍した事をキッカケに
再びクローザーに復帰すると
72試合で11勝9敗26セーブ、防御率1.62と
抜群の安定感を見せたのです。

その年のシーズンオフ、金持ち球団
ニューヨーク・ヤンキースから
6年総額360万ドルのオファーを受けて
移籍すると、1年目から
セットアッパーのロン・デービス、
スパーキー・ライルらとともに
ヤンキースのブルペンを担い、
防御率2.01、10勝11敗27セーブの成績を残して
セーブ王を獲得、さらにワールドシリーズ制覇にも
貢献して世界一のクローザーとなりました。

1980年には64試合に登板して6勝2敗33セーブ、
防御率2.27で3度目のセーブ王に輝いたほか
MVPの投票ではジョージ・ブレット、
レジー・ジャクソンに次ぐ3位となり
サイ・ヤング賞の投票でも3位に選ばれたのです。

1983年7月24日に行われた本拠地ニューヨークでの
ロイヤルズ戦では、9回表に登板すると、
ロイヤルズのジョージ・ブレットに
逆転2ランを打たれましたが、直後にヤンキースの
ビリー・マーチン監督が猛抗議、
「ブレットのバットに塗られている滑り止めの
パインタール、松ヤニが随分前から気になっていた、
いつか抗議してやろうと思っていたんだ。規定を
超えているだろ」とホームランの無効を主張すると
審判団は判定を覆してバッターアウトを宣告しました。

当然、ブレットは血相変えて反論するも受け入れられず
後日ロイヤルズは提訴に踏み切ると
ア・リーグのリー・マクフェイル会長は「悪意なし」と
今度は一転、本塁打を認めた事で
9回表ツーアウト、5対4でロイヤルズリードの場面から
やりなおしとなったのです。

8月18日、わずか1200人の観客の前で始まったゲームは
あっさりロイヤルズの勝利で終わりましたが
パインタール事件と呼ばれた球史に残る試合に
関わったリッチ・ゴセージ、リー・マクフェイル、
ジョージ・ブレットの全員がのちに野球殿堂入りし、
ビリー・マーチンもヤンキースの永久欠番という
豪華な面々による珍事でした。

ヤンキースで6年間クローザーをつとめあげ

150セーブを積み重ねたゴセージは
1984年からサンディエゴ・パドレスやシカゴ・カブス、
サンフランシスコ・ジャイアンツなどを渡り歩き、
1989年にヤンキースに復帰しましたが
シーズン終了後、自由契約になると突如、
福岡ダイエーホークスの春季キャンプに現れ
入団テストを受けたのです。

当時、大リーグ史上2位の通算307セーブを挙げた
伝説的な抑え投手は
キャッチボールもせずに141キロの直球を
投げこみましたが
全盛期には100マイルの速球と85マイルのスラーブを
操っていた面影はなく、不合格になると、その足で
近鉄のキャンプ地でも投球を披露しましたが
こちらも仰木彬監督から「いらん」とつれない返事を
されてしまいました。

38歳という年齢やジャパンマネーを狙った
現役バリバリのメジャー・リーガーの売り込みも
多かった時代背景から、すでに終わった投手と
見られていたのです。

しかし1990年シーズンが開幕すると、ホークスは
投手陣が崩壊、年間100敗ペースで黒星を重ねていき
勝率2割台の最下位独走状態に陥った事から
田淵監督はブルペンの救世主を探し始めると
夏目前でもまだ所属先が決まっていなかった
ゴセージの再テストを行いました。

超大物大リーガーを少しでも早く使いたい
球団は、7月2日の夜9時に緊急入団発表を行い、
1勝、1セーブごとに出来高ボーナスつきの
契約金4000万円で話がまとまり
身長190センチ、体重98キロの巨体は
海を渡ってきたのです。

ここから先は

1,593字

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!