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ジーン・バッキーという男

割引あり

1937年、アメリカ合衆国ルイジアナ州で
フランス系移民の家庭に生まれた
バッキーは、
サウスウエスタン・ルイジアナ大学を
卒業したのち、エンゼルス傘下の
3Aハワイ・アイランダーズで
プレーしていましたが、1962年、
結婚式をあげた2日後に解雇されました。

エンゼルスの傘下とはいえ、当時はまだ
アマチュアチームだったハワイの
マイナー球団には多くの日系人が在籍しており
行き場を失った右腕(うわん)は、
チームメイトからハワイ朝日軍の代表、
エンゼル・マエハラ氏を紹介されたのです。

映画「バンクーバーの朝日」に
描かれたようにアメリカやカナダに
存在していた日系人による
アマチュアチームで投げる事になった
バッキーでしたが、バッテリーを組んだ
藤重登(ふじしげのぼる)が
前年まで阪神タイガースに在籍していた事から
紹介状を書いてもらうと、1962年、
藤本監督が見守る中で入団テストを受けました。

球速は平均点、コントロールはアバウトでしたが
長い腕をしならせながら、スリークォーター気味に
投げ込んでくるクセ球は出所が見づらく、
シュートやナックルも投げられた事から
「リリーフなら使えそうだ」と合格を
勝ち取ると
身長191センチ、体重91キロの助っ人は契約金無し、
月給9万円で海を渡ってきたのです。

正式な発音「バッケェ」では化け物のようだからと
バッキーで登録された背番号4は
「大好きな野球を続けたいから
迷わず日本行きを決めたよ。新婚だったし
ハネムーンみたいなものさ」
と、夫人とともに西宮市内にある家賃1万3000円の
木造アパートで日本生活をスタートさせると
サンドイッチ弁当を抱えて甲子園まで自転車通勤し、
通訳もいない環境下で必死に日本語を覚えては
チームに溶け込んでいきました。

「最初は言葉に苦労したけど銭湯に行ったり
焼き肉、ギョウザ、しゃぶしゃぶに
チャレンジしたり楽しんでいるうちにすぐ馴染めたよ」と
遠征先では浴衣に身を包み
旅館でナインと雑魚寝するほど
順応した探求心の強い投手は
1年目こそ、0勝3敗に終わりましたが
翌1963年は8勝をマークしてチームの
力となったのです。

針の穴を通すと言われたエース、
小山正明(こやままさあき)の
投球を食い入るように見つめて研究し
「これだけコントロールのいい
ピッチャーはアメリカにもいない」と
フォームやボールの握り方、
リリースのタイミングなど様々な技術を
教えてもらうと制球力が格段にアップしました。

コントロールを身につけて
飛躍の年となった1964年、29勝9敗、
防御率1.89で最多勝利と最優秀防御率に輝き、
外国人選手として初めて沢村賞も受賞した
助っ人は、村山実とともに二枚看板の
エースとして2年ぶりのリーグ優勝に貢献、
「ダブルヘッダーで先発勝利したあと、
2試合目にもリリーフ登板して勝ったんだ。
1日で2勝したんだよ」と、354イニングを
投げ抜くほどタフな投手だったのです。

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