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【木田優夫】野球とバラエティと球団マネージメント全てにセンスを発揮した読売ドラ1右腕は飄々とした雰囲気ながら義理人情に厚く恩義を忘れない男 メジャーに挑戦しGM補佐にもなった流浪の右腕

おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、木田優夫(きだ まさお)さんを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=PwAikjS_EoE&t=94s

高校球児だった父親の影響で、東京都国分寺市の
少年野球チームで野球を始めると、
中学在学時、関東代表として台湾に遠征するなど
すでに野球選手としての非凡な才能を
発揮し始めます。

山梨県の日本大学明誠高校(にほんだいがくめいせいこうこう)に進学すると、
エースで4番として県大会に出場、
決勝まで勝ち上がったところで
名門、東海大甲府(とうかいだいこうふ)とぶつかりました。

東の久慈(ひがしのくじ)、西の立浪(にしのたつなみ)と言われた
守備の名手として、のちに
阪神タイガース、ドラフト2位で入団する
久慈 照嘉(くじ てるよし)ようする
東海大甲府が高い壁として立ちはだかり、
準優勝止まりでしたが、

188センチの長身から投げおろす速球が魅力の
右の本格派としてプロから注目を集め、
1986年ドラフト会議で、即戦力候補の阿波野(あわの)を
抽選で外した
読売ジャイアンツが、前年に獲得した桑田真澄(くわた ますみ)に
続けとばかり、将来性のある高校生として
木田(きだ)を1位に指名したのでした。

入団時は武器となる変化球がありませんでしたが、
期待の新人は、2年目からアメリカ留学の候補者に選ばれ、
マイアミ・マーリンズに野球留学することになりました。

そこで木田の手の大きさに着目した
オーランド・ペーニャコーチから、
フォークボールの指導を受けたことで開眼、

1989年4月29日にプロ初先発初勝利を手にすると
翌年には、二桁勝利とセ・リーグ最多の
シーズン182奪三振を記録、
オールスターゲームにも出場を果たし、
この年の優勝に大きく貢献したのです。

1998年1月、のちにミルウォーキー・ブルワーズに入団して
同じく、メジャーリーガーとなる

野村 貴仁(のむら たかひと)投手との交換トレードで
オリックス・ブルーウェーブへ移籍すると、
抑え投手として起用され、自己最多の16セーブを記録しました。

その年のオフ、フリーエージェント権を行使して
一番やりがいがある場所で野球をしたいと、夢に見ていた
メジャーリーグの世界に、なんと代理人を付けず、
自ら直接交渉して飛び込んだのでした。

ヤクルトと阪神でプレー経験があり、日本野球を知る
パリッシュが指揮官ということと、自動車産業が盛んで
日本人も多く、暮らしやすい、という理由で、
デトロイト・タイガースと2年300万ドルで契約。
ついに日本人8人目のメジャーリーガーとなったのです

「アメリカに英語の勉強をしに来たわけではない。
野球をしに来たんだから野球以外のことで
神経を使いたくない」と考えていた木田にとっては
最高の環境となりました。

背番号は、ミラクルメッツの立役者で、
中学生のころから憧れのサイ・ヤング賞投手トム・シーバーの
永久欠番「41」に決まり、
入団会見では、親交のあった明石家さんま氏のアドバイスで
羽織袴姿で登場すると、
デトロイトが舞台の映画にちなんで、ロボコップに会いたかった、
とジョークを飛ばして、報道陣の心をわしづかみにしました

1999年の4月5日、テキサス・レンジャーズ戦で
メジャーデビュー、5月16日のクリーブランド・インディアンス戦で
メジャー初セーブ、6月14日のシアトル・マリナーズ戦で
メジャー初勝利と、順調に結果を出していきましたが
左わき腹痛を発症して、故障者リスト入りとなってしまいました。

野茂英雄(のも ひでお)から、メジャーで通用する力があるのに
帰るなんて、本当にもったいないと言われて、
迷いましたが、2000年には、オリックス・ブルーウェーブに復帰。

「マイナーリーグは野球だけじゃなく生活面でも苦労が多く
白髪も増え、日本より3倍の早さで年を取った」と語りました。

腰痛治療のため、どの球団にも所属しなかった時期を経て

2003年、再度アメリカに渡り、ロサンゼルス・ドジャースと契約、
8月24日のエクスポズ戦でメジャーに昇格すると、
石井一久(いしい かずひさ)の後を引き継いで、8回途中から無失点リリーフ。
メジャー初となる、日本人投手のみのリレーで
石井に12勝目をプレゼントしました。

そんな折、監督から
「君はマリナーズに移籍したから早く行け。
今日からビッグリーガーだ、おめでとう」と言われ、
すぐに飛行機に乗って、マリナーズに合流。

ドジャースの青いスパイクをマジックで黒く塗って
練習に参加して、9月1日、
シアトル・マリナーズに電撃移籍という、
いかにもメジャーリーグらしい移籍も経験します。

オリックス時代のチームメイト、イチローと再び
一緒にプレーすることが決まった翌日の9月2日、
さっそく
ブルージェイズ戦ですぐに移籍後初登板、
3回を無失点と挨拶代わりの投球を見せました。

その後、フォーム自体をもっと安定させようと
サイドスローに改造したり、クローザーとして
3Aのオールスターに出場、チームのプレーオフ進出に向けて
挑戦を続けていると、

2005年のオフ、東京ヤクルトスワローズ新監督に就任した
古田(ふるた)氏から誘いを受けて、帰国、入団することになりました。

2006年、中継ぎで56試合に登板して
リーグ4位となる23ホールドを記録。さらに16年ぶり2回目の
オールスターゲーム出場など、新監督の期待に見事応えたのです。

2007年にも50試合に登板、2009年は先発としてローテーション入りし、
4月8日、中日ドラゴンズ戦で11年ぶりの先発での勝利を飾り、
見事、復活いたしましたが、その年のオフ、次なる新天地を求めて
北海道日本ハム(ほっかいどうにっぽんハム)ファイターズへ移籍しました。

3月22日の福岡ソフトバンクホークス戦ですぐに移籍後初勝利。
5月4日には通算500試合登板も達成したのです。

その後も「そのとき一番やりがいがあるところで
野球がしたいだけ」と野球への情熱が消えることはなく、
2012年12月21日、BCリーグの石川ミリオンスターズへ入団、
主にクローザーとして活躍します。

不動の守護神は、
地区チャンピオンシップ、BCリーグチャンピオンシップ、
日本独立リーグ・グランドチャンピオンシップでも登板して
独立リーグ日本一の胴上げ投手の栄冠に輝くと同時に
背番号12番はミリオンスターズの永久欠番となったのでした。

さらに木田は、ここから驚くべき転身を遂げます。
12月に石川ミリオンスターズのゼネラルマネージャーに就任、
選手の獲得、指導、体調管理、球団営業など多岐にわたり、
幅広くチーム編成に携わると(たずさわると)

2015年からは、北海道日本ハムファイターズの
ゼネラルマネージャー補佐に抜擢(ばってき)され、
プロ野球の世界にカムバックしてきたのでした。

お客さんに楽しんでほしいと、画伯と呼ばれる程、
得意なイラストを生かしてファンの似顔絵を描いたり、
自分で道具を買い揃えて、子供たちに野球教室を開講したり、
私財を投じてスワローズクラブハウス前にファン用テントを
設置、さらに自腹で100万円を使って、都営バスに
開幕戦のラッピング広告を出すなど、
ファンサービスに尽力しました。

ライバルはダルビッシュ、僕がプロに入り見てきた中で
ナンバーワンの投手と公言していますが、

長年、現役を続けられた理由を聞かれると、
エースになると毎年結果を求められるし、
高年俸になれば真っ先に自由契約の対象に選ばれますが、
「目立たず、騒がず、そこそこの結果を」をモットーに、
大活躍もしないが大きな失敗もない風よけ人生が秘訣だと
謙遜して語ったのでした。

巨人時代は、自転車で最寄り駅まで行き、
中央線で水道橋駅まで通っていて、退団後は、引越しが面倒だからと
10年以上ホテル住まいをしていたという自然体。

日本とアメリカ合わせて、8チームを渡り歩き、
2度の渡米と2度の日本球界復帰、さらには、
どこにも所属しなかった1年もあったりと流浪のプロ人生で
ありながら、
シアトルでレストランを共同経営、さらには
ゼネラルマネージャーまで、こなしてしまう多彩な才能の持ち主。

現役時代は、先発、リリーフ何でもこなせるタフネスぶりで
谷間の先発、ブルペンにとフル回転の「便利屋」と
呼ばれた投手のユーティリティープレーヤー、木田優夫

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、世界で戦った
偉大なサムライたちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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