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マット・キーオという男

割引あり

1955年、アメリカ合衆国カリフォルニア州に生まれた
本名マシュー・ロン・キーオは、
ボストン・レッドソックスや
シンシナティ・レッズでプレーしていた
父、リチャード・マーティン・キーオの影響で
野球を始めると、1968年には
南海ホークスの助っ人として来日した父とともに
日本の地を踏みました。

帰国後はカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校に
進学しましたが中退した1973年、
内野手としてMLBドラフト7巡目で
オークランド・アスレチックスから
指名されると、1975年に1Aで123試合に出場し
打率3割3厘、13本塁打、
81打点の成績を残したのです。

しかし翌1976年は2Aで2割程度の打率に
終わった事から
本格的に投手転向を決意、
フリーエージェント制度導入を契機に
レジー・ジャクソンらチームのスターが
軒並み移籍した影響で
戦力が低下していた状況下で
頭ひとつ抜け出すと、1977年の
メジャー昇格を皮切りに
翌年にはアスレチックスから唯一人、
オールスター出場を成し遂げました。

防御率3.24と好投しながらも打線の援護がなく
8勝15敗に終わった右腕は
翌1979年も開幕から14連敗を喫すると
前年から続く
28先発連続勝利なしというMLB記録を
作ったのです。

打てないチームの中で、もがき苦しんでいた
右腕でしたが、1980年、3球団を地区優勝に導いた
闘将ビリー・マーティンが新監督に
就任すると風向きが変わり始めました。

「ブルペンなんか見ても誰もいないからな、
右だろうが左だろうが、今投げている奴より
良いピッチャーはいないんだ」と
完投哲学を持つマーティンのもと、
キーオを含めて全員が20代だった
アスレチックスの先発投手5人は
投げて投げて投げまくったのです。

自己最多を50回以上も上回る
250イニング投げたキーオを筆頭に
チーム完投数が94試合を数えると
前年108敗して最下位に沈んでいたチームが
2位に大躍進を遂げ、
キーオ自身も16勝13敗、防御率2.92で
カムバック賞に選ばれました。

勢いそのままに翌1981年は
前期優勝を飾りましたが
エース5人の酷使が祟って、その後は低迷、
1983年途中からニューヨーク・ヤンキースに
放出されたのです。

女優のジーナトマシナさんと結婚した
1984年は復活を誓いましたが
メジャー登板の機会はなく
複数球団を渡り歩く日々を送っていたキーオは
「ケガはビリーのせいじゃないよ。
完投の数や使われ方が故障の原因になったとは
思わないね」と発言していました。

1986年10月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦、
二塁走者ダン・グラッデンを置いた状況で
代打リチャード・ランスを打席に迎えると、
一塁手グレン・デービスの前に転がる
ファーストゴロに討ちとったシーンが
メジャー最後の試合となった右腕に
再び転機が訪れます。

1985年に球団初の日本一に輝いたものの
先発投手が不足していた事から一転、
低迷期に突入していた
阪神タイガースは、エース候補として
メジャー通算58勝の右腕に白羽の矢を立てました。

NHKの人気番組「ひょっこりひょうたん島」の
大統領ドン・ガバチョが好きだったという
身長190センチ、体重86キロの31歳は
「もう1度、先発投手として輝きたい」と
日本行きを決意すると海を渡って来たのです。

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