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ルイス・サンチェスという男

割引あり

1953年、ベネズエラの片田舎に生まれた
サンチェスは中学生の頃から
家計を助けるために働いていたというほど
貧しい家庭に生まれると、
カリアコ高校に通っていた1971年、
17歳でヒューストン・アストロズと
契約しました。

しかし言葉の不自由さから
自分は差別されている
という意識にさいなまれていた右腕は
下部組織ココア・アストロズで
くすぶっていると
トム・モーガンコーチからスライダーを
教わりリリーバーへ転向したものの
「野球の才能はあるが持続力がなく
相手打者を絶対に抑え込むという本能に
欠けている」と酷評されたのです。

右ヒジ手術やスリークォーターへの
フォーム改造にも着手しましたが芽が出ず
シンシナティ・レッズやメキシカンリーグなどを
渡り歩いていた1981年、
カリフォルニア・エンゼルス移籍をキッカケに
待望のメジャー昇格を果たしました。

1983年に10勝7セーブ、翌1984年には
9勝11セーブの成績を残すと
モントリオール・エクスポズ移籍が
決まった1985年のオフ、運命の歯車が
動き出します。

満を持して王監督が就任するも
2年連続で優勝を逃していた読売ジャイアンツは
これ以上、世界の王に恥をかかすわけには
いかないと1986年「スモーク」の愛称で
親しまれたデーブ・スチュワート投手の獲得を計画、
当時の日本円で総額6億円という
破格の条件でオファーを出しました。

しかし契約寸前でスチュワートに
買春容疑が持ち上がった事から破談になると
急遽代役を探す必要に迫られた巨人軍は
数年前から候補者リストに入っていたサンチェスに
目をつけたのです。

エンゼルス時代に一度オファーはしたものの
譲渡を拒否されていたサンチェスが
クロマティ獲得をキッカケに関係が良好だった
エクスポズへ移籍した事も功を奏して
再アタックする機会を得たジャイアンツは
大リーグ平均年俸約37万ドルを大きく上回る
年俸60万ドルを提示、身長187センチ、
体重87キロの助っ人は海を渡って来たのでした。

助っ人といえば破壊力を誇る長距離砲が
主流だった当時の日本球界において
レアな外国人ストッパーは3月3日、
首に5本のゴールドネックレスに
右手に金のブレスレット、
左手にも金ピカ腕時計のほか、
両手の薬指にダイヤを散りばめた金の指輪という
ド派手な出で立ち(いでたち)で来日すると
早速、事件を起こします。

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