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尾形百之助を巡る水戸ツアーしおり

先日水戸を回るにあたり、まとめたしおりの内容です。
水戸で尾形百之助を想う旅をする際にお役立てください。

尾形と士族

尾形の描写や「百之助」という名前から、母方実家は元水戸藩の士族なのではという考察があります。
さらに、百ちゃん幼少期の描写では、百ちゃんの持っている銃が猟銃ではなく、対人用のライフルの形をしている(百ちゃんの持っている銃は二種あり、一つはスペンサー銃という戊辰戦争で使用されたライフルの形に似ている)ということからも、尾形家は士族であると仮定して話を進めます。

百ちゃんのママのお名前「トメ」。これはかつて、「これ以上子供がうまれないように」と止めるの意味で末っ子につけられる名前だったと言う説があります。この説を採用すると、トメさんには兄・姉がいる可能性が高いです。1882年ごろに尾形生誕と想定するとトメさんは1860年前後の生まれと想像されます。
もし、年の離れた兄がいたとしたら、ちょうど水戸藩の激しい藩内抗争の時期に青年期を迎えていた可能性があります。士族でありながら末にトメと名付けるぐらいですので、複数の兄・姉がおり、また、貧しい・苦しい境遇であったのではないでしょうか。 
その姿が作中で見えず、年老いた尾形の祖父母や、士族でありながら芸者に身をやつしたトメさんの様子からすると、尾形家も藩内抗争によって被害を受けた没落士族なのではないかと想像しました。また、Twitterで特定された百ちゃんの立ち位置ですが(※1)、この辺が江戸時代に武家屋敷のエリアであったと言うツイートからも、尾形家は過去それなりに有力な士族(水戸城に近いので)だったのかもしれません。

※1
103話の回想シーンに映る背景から、百ちゃんの立ち位置を特定している いかさんのツイートのまとめです。かなり本格的に検証していらっしゃってすごいです!読み応えたっぷりなので、ぜひご覧ください。
いかさん、掲載の許可をいただき、ありがとうございました!

https://twitter.com/i/events/1461861001838710792?s=21&t=LSVi0XohLI6OR7gaVzQdwg



水戸藩の歴史

水戸藩は、幕末に血で血を洗う内乱が起きたことで有名です。事の発端は有名な安政の大獄に遡ります。安政の大獄とは、1858年から1959年にかけて、大老・井伊直弼が幕府の政策に反対する藩・藩士を弾圧した事件です。水戸藩の大老など高位の藩士8名が死罪となり、ほか100名以上が処罰されるという大規模で残酷なものでした。

このこと(安政の大獄)から、幕府への敵対心が各藩に燻り始め、結果として、安政の大獄は幕府への信頼を大きく低下させることとなり、反幕派による尊攘活動を激化させました。
そして、井伊直弼は桜田門外ノ変で暗殺されてしまいました。実行したのは主に尊王攘夷をかかげる水戸藩の浪士です。水戸だけでなく、薩摩も安政の大獄で幕府への反感を持っており、桜田門外ノ変では、一人だけですが、薩摩藩士が参加しています。

薩摩と水戸 進む道の違い

この時期、水戸と薩摩の二つの藩は同じ尊王攘夷を唱えていました。しかし、薩摩は薩英(さつえい)戦争によって、国外の強さを実感。外国を追い払うことは難しいと考え、水戸藩とは違う道を歩むようになりました。(ちなみに薩英戦争の発端となった「生麦事件」では薩摩の薬丸自顕流の使い手が馬上のイギリス人を一刀で切り捨てています。鯉登少尉の猿叫のやつです)世論が尊王攘夷から開国へと傾く中、水戸藩は内部で保守派(幕府)と改革(攘夷)派に分裂、改革派の「天狗党」による天狗党の乱が勃発します。

天狗党は京都にいた元藩主斉昭の息子である一橋慶喜を通じて、朝廷に尊王攘夷の志を伝えようと、兵を挙げました。しかし幕府は、各藩に一派の追討を指示、さらにその指揮を取るように最終的に命じられたのは、頼みとしていた一橋慶喜でした。命懸けで思想を訴えようと兵をあげ、その旗印となってもらおうと思っていた旧藩主の次男が、幕府側に立ち、追討の指揮をとっていると知った天狗党の思いはどんなものだったのでしょうか。

戦いは1864-1868年ごろの間続き、藩士がことごとく戦死、降伏後も353名が処刑されるという凄惨な結果に終わりました。保守派の諸生党もまた、戊辰戦争では賊軍にあたるため、壊滅の一途をたどりました。
かつては「水戸学」という思想体系を背景に、幕末の尊王攘夷運動の先頭に立っていた水戸藩でしたが、この内乱によって優秀な人材がことごとく失われ、結果、新しく誕生した明治政府に水戸藩からはひとりの高官も送り出せないという、悲しい末路をたどりました。

水戸について

徳川最後の将軍徳川(一橋)慶喜は、9代水戸藩藩主だった徳川斉昭の息子です。幼少期は水戸藩校・弘道館で学問と武術を教授されました。幼少期より才知に溢れ、兄がいましたが他家の養子にはされず長男・徳川慶篤の控えとして水戸で育ちます。(徳川家の子息は江戸で養育されることが多かった)

徳川斉昭は藩政改革に成功した幕末期の名君の一人でした。教育を重視し、水戸藩の藩校、弘道館を設立したのも斉昭です。しかし大老井伊直弼との政争に敗れて永蟄居となり、その後そのまま死去しました。(そのことが水戸藩の藩士たちを憤らせ、桜田門外ノ変を引き起こす)

水戸の三ぽい(みとのさんぽい)と言う言葉があります。理屈っぽい・怒りっぽい・骨っぽい(荒っぽいとか飽きっぽいとか諸説あり)の三つの気質で、社交的とは言い難い水戸人の直情径行な気質を表しており、これが天狗党など、幕末〜明治期の歴史に直結する水戸藩士の振る舞いに表れている、とされています。

元は徳川将軍家であり、二代続いて英知に恵まれた人物を輩出しながら、時代の流れに乗ることができなかった水戸藩。持って生まれた優秀さと勤勉さを生かす場を持てず、内に持った気性の荒さから自らを滅ぼしていく様はまるで尾形百之助ですね。

弘道館

弘道館は今も一部に創建当時の建物が現存し(正庁と正門)正門には、明治元年(1868年)の弘道館戦争で打ち込まれた銃弾の痕が残っています。
藩校としては学制発布とともにに役目を終えたのですが、明治14年(1881年)に市民の切望により公園認可を受け、

・明治22年(1889年)1月より 水戸幼稚園園舎として使用される。
・明治27年(1894年)4月より水戸市高等小学校(現水戸市立三の丸小学校) の分教室として使用される。(~明治28年)

とあるので近所の百ちゃんが通っていた可能性もありますね。

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