~おのれ秀秋!裏切ったな!~ 何故小早川秀秋は関ヶ原で裏切ったのか? 完
〇関ヶ原の戦い 開戦
1600年、石田三成が挙兵しました。
豊臣秀吉の息子・秀頼をないがしろにする徳川家康を討つ、という名目でした。
そして秀秋のもとに、味方するよう三成からの使者がやってきます。
三成からの勧誘の条件は以下のようなものでした。
・秀頼が成人するまで関白にする。
・秀頼の後見人にする。
・領地を増やす。
当時は秀頼が日本のトップですから、その秀頼の関白・後見人というのは、実質「日本のナンバー2」というものでした。
この条件を受けた秀秋は、三成(西軍)に味方するとして大軍を率い出兵。
関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いに参加しています。
しかし伏見城の戦いの後、秀秋は突然三成と別れて単独行動をとり、関ヶ原で西軍に再度合流します。
関ヶ原に到着した秀秋は、「松尾山こそ、この戦いの重要拠点である」と考え、松尾山にすでにいた味方部隊を追い出して勝手に占拠してしまいました。
関ヶ原の戦い、両軍の布陣。
西軍は中央の石田三成・宇喜多秀家の軍が徳川軍を引きつけ、その背後から小早川と地図の右にいる安国寺・吉川・長宗我部・毛利軍らが挟み撃ちにするという作戦でした。
10月21日午前8時頃、ついに東西両軍がぶつかりました。
兵数については諸説ありますが、だいたい東軍8万vs西軍7万5千、ほぼ互角の戦力差だったようです。
ただ、東軍を挟み撃ちにする形の西軍のほうが有利でした。
しかし重要拠点に布陣していた小早川軍、毛利軍が動きません。
もともと西軍を立ち上げたのは石田三成と宇喜多秀家でしたが、主力は小早川軍、毛利軍であり、その数は合わせて4万くらい。
西軍の半分を占めていました。
その小早川・毛利が動かなかったことで、数は東軍が大きく有利になりました。
秀秋は松尾山から、石田軍に襲いかかる東軍をただ眺めていました。
〇秀秋の迷い
秀秋が動かなかったのは、この時すでに東軍に寝返っていたからでした。
前述の伏見城の戦いの後の秀秋の単独行動。
この時に東軍と連絡を取り合っていたと考えられます。
家康からも莫大な恩賞を条件に、味方に付くよう勧誘されていたと考えられます。
もともと秀秋にとって、三成は朝鮮戦争の時に秀秋の活躍を秀吉に悪く言った憎い相手でした。
一方、家康は三成に奪われた領地を取り戻してくれた恩人でした。
「豊臣一族」という使命感から西軍に味方した秀秋でしたが、この時すでに心は東軍に傾いていたのでしょう。
それでも「自分の決断で裏切る」ことは気が引けたのでしょうか。
秀秋は自分は動かず、東軍が西軍を倒すのをただ眺めていました。
自分と毛利軍が動かなければ、兵力が多い東軍が勝つはずでした。
しかし思いのほか石田・宇喜多両軍の戦闘は凄まじく、西軍と東軍の戦況は拮抗していました。
12時頃、ついに西軍が東軍を押し始めます。
この頃には秀秋のもとに、西軍・東軍両方から参戦の使者が何度も来ていました。
押してはいるものの、兵が少なく押しきれない西軍。
押され始め、反撃のきっかけが欲しい東軍。
天下分け目の戦場で、秀秋は重要な選択を迫られたのでした。
この時、秀秋19歳でした。
〇秀秋の決断
そうこうしているうちに、ついに東軍の家康がしびれをきらします。
秀秋のいる松尾山へ鉄砲を撃ったのです。
山の上まで鉄砲の弾が届くことはありません。
しかし、これで家康が怒っていることに気づいた秀秋は、西軍へ突撃をしかけます。
西軍は東軍を押していたとはいえ、兵数は少なく朝から続く激戦に疲れ果てていました。
そこに無傷の小早川の大軍に突撃されればもう持ちこたえられません。
午後2時頃、西軍は壊滅しました。
〇秀秋、狂う
関ヶ原の戦いの勝利により、秀秋の領地は増えました。
岡山城(岡山県)を中心に都市整備や近代化、寺社の復興など町作りに力を入れました。
しかし秀秋は次第に体調を崩すようになり、関ヶ原の戦いからわずか2年後、1602年に病死してしまいました。
21歳という若さでした。
秀秋の死因については様々な噂があります。
関ヶ原の裏切りによる良心の呵責に耐えかねて酒を飲む日々が続き、アルコール中毒で死んだというのが1番一般的でしょうか。
それ以外にも、西軍の亡霊にうなされた、領地内で殺人事件が頻発したストレス、裏切り者である秀秋に対して周囲の目は冷たかった……などなど。
結局のところ現代で言う「うつ病」であったとも言われています。
秀秋には子供がおらず、秀秋の死により小早川家は断絶となりました。
また、当時から「小早川=裏切り」のイメージがあった為、家臣たちは再就職が難しく、その多くが路頭に迷いました。
これを「小早川浪人」と呼びます。
〇終わりに
幼少期から大人の都合で振り回され、15歳で日本軍の総大将として海外出兵、19歳という若さで天下分け目の重大な決定を迫られる。
思えば、彼の人生は戦国時代であることを考えてもかなり波乱万丈でした。
死後400年経っても明智光秀と共に「裏切り者」の代名詞として悪く言われる小早川秀秋。
しかしこうやってひとつひとつ彼の人生を見ていくと、決して彼が突然裏切ったわけではなく、その裏切りに至るきっかけや苦労がいくつもあったことがわかっていただけたのではないでしょうか。
今後も「もし関ヶ原で小早川秀秋が裏切らなかったら」というIFを取り扱う番組は無数に放送されると思います。
でも、「結果」だけではなく、「原因」にも目を向けて欲しいですね。
おわり