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平和を愛した兄、戦を愛した弟 ~長尾晴景・景虎~

目次
・はじめに
・主な登場人物
・為景の下克上
・長尾晴景
・おわりに


・はじめに

2019年12月、テレビ朝日で「国民10万人がガチ投票!戦国武将総選挙」という番組が放送された。
全国10万人の歴史好きが選んだ「好きな戦国武将」ランキング20が発表された。

1位は織田信長。
2位が上杉謙信。……上杉謙信。上杉謙信?

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確かに人気のある戦国武将だ。
が、まさか2位とは思わなかった。
強かったこと、カリスマ性などが2位の理由のようだ。

そんな謙信は、戦場での強さから「軍神」と呼ばれた。
戦国時代最強の武将と言っても過言ではないだろう。

そして本人も、おそらく戦が大好きであったと思う。
メディア作品でも、3度の飯より戦が好きな戦闘狂のように書かれることも多い。

そんな謙信には兄がいた。
謙信とは逆で、平和を愛した人物だ。
長尾 晴景(ながお はるかげ)という。

今回はそんな晴景について紹介したい。


・登場人物
長尾 為景(ながお ためかげ)・・・上杉謙信の父親
長尾 晴景・・・上杉 謙信の兄
上杉 謙信

・為景の下克上

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越後(新潟県)は荒れていた。

1507年、越後の主・上杉 房能(うえすぎ ふさよし)が殺された。
殺したのは上杉房能の家臣で、長尾 為景という21歳の若き武将である。

為景はこの行為に反対した者らを力で抑え込み、越後の実質的な主の座に成り上がった。
主を殺し国を力で勝ち取った為景は、人々から「奸雄(かんゆう:悪知恵に長けた英雄)」と称される。

そんな人物だからか、国をうまくまとめることは出来なかった。
長年他勢力との関係に悩まされ、1540年、隠居を決意した。


・長尾晴景

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晴景は30歳の時、為景の長男として後を継いだ。

主を殺し生涯戦に明け暮れた父・為景とは反対の人物であった。
生まれつき病弱で、戦を嫌い、文化や芸術への関心が高かったようである。
さらにおだやかな性格で、家臣も力で押さえ付けるのではなく、話し合いでの融和を図った。

一方、ただ軟弱で頼りない主というわけでもなかった。
為景の葬式が行われた時には、為景に恨みを持つ者の襲撃を警戒し、甲冑姿で式に出席するなど武士らしい振る舞いも見せている。

そんな晴景に代わり、越後各地で起こった反乱を鎮圧していったのが弟の謙信である。
将来軍神と呼ばれる見事な戦ぶりやカリスマ性もあり、徐々に家臣の中で謙信への期待が高まっていくこととなる。

皮肉なことに、越後をまとめるための謙信の活躍は、再び越後分裂の危機をもたらした。

優しさで平和な国づくりを目指した晴景。
戦国時代にふさわしい、戦に強いリーダーである謙信。

家臣団が両派に分かれ、一触即発の事態に陥った。

最終的には謙信派の家臣たちが晴景へ隠居を強く迫り、晴景も謙信へ家督を譲ることを決めた。

1548年、晴景は隠居し越後の主は謙信となった。


・おわりに

兄・晴景と弟・謙信。

当主の座を争う形にはなったが、だからといって仲が悪かったと言い切ることはできない。

謙信自身は、自分が当主になることは何度も断っている。
兄の立場を思いやったのかもしれない。

だが、前述したように晴景は身体が弱く、戦場で武将を率いることができるタイプではなかった。

世は戦国時代。
晴景では乱世を生き抜くことが難しかったのも事実。

これから先、新当主となった謙信に率いられた上杉軍団は、「戦国最強」と呼ばれるようになる。
謙信が当主になったことは、歴史的に大きな意味を持つだろう。

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歴史にIFはない。
が、もしも晴景が病弱ではなかったら。
謙信が当主とならず、一武将として生涯を終えていたら。
どうなっていたのだろうか。
そんなことを考えるのも面白い。


おわり