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天下を肴に ~豊臣秀吉の花見~

目次
・はじめに
・吉野の花見
・醍醐の花見
・おわりに


・はじめに

コロナウイルスの感染拡大により、外出の自粛要請が出されてしばらく経つ。今年は花見が出来なかった、という方も多いのではないだろうか。私もその一人だ。

私は趣味のひとつが城めぐりなので、毎年春は城址に桜を見に行く。今年は行けなかった。高遠城(長野県)か山中城と三島大社(静岡県)に行きたいと思っていたのに……。

さて、そんな花見だが、戦国時代には既にあった。というか奈良時代には既にあったらしい。1300年も前だ。もっとも、その頃は桜ではなく梅の花を見るものだったようだ。梅から桜に変わったのは平安時代の頃だとか。

今回は戦国時代の天下人・豊臣秀吉の花見について紹介したい。


豊臣秀吉についてはここで改めて紹介するまでもないだろう。

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尾張(愛知県)の低い身分の家の生まれであったが、その才能を織田信長に認められ、出世していく。
信長が本能寺の変で死ぬと、謀反人・明智光秀、他の織田家の武将らを倒し、織田政権を継承。その後全国の抵抗する勢力を降伏させ、天下人となった。


・吉野の花見

1590年、秀吉は相模(神奈川県)の北条氏を倒す。
1591年、東北地方で抵抗する勢力を倒す。これにより南は薩摩(鹿児島県)から北は蝦夷(北海道南部)まで支配下に納め、天下を統一した。戦は終わった。

1594年、秀吉は大和(奈良県)の吉野で花見を行った。吉野は現代でも「桜の三大名所」と呼ばれる場所である。

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参加者は秀吉家臣の武将、茶人、歌師など5,000人と言われ、花見は5日間続いた。歌の会、茶の会、能の会といった催しものも開かれ、大変盛大な会であったようだ。
一説には、もともと花見は貴族の文化であったが、この会を見学した人々によって広められ、庶民たちも楽しむものになったともいわれる。

吉野の桜を見ながら、秀吉はこんな歌を詠んでいる。

「年月を 心にかけし 吉野山 花の盛りを 今日見つるかな」

(長い年月をかけて咲いた吉野山の桜。その最盛期を今見ている。)

秀吉この時58歳、おそらく彼にとっても人生の最盛期だったのではないか。


・醍醐の花見

1598年、秀吉は山城(京都)の醍醐寺で花見を行った。

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醍醐寺は現代では「京都のさくら名所100選」に選ばれている。しかし醍醐寺はもともと桜の名所ではなかった。醍醐寺で花見がしたいと考えた秀吉が、全国から名桜を集め植樹したのだ。その数は700本を超えたという。

現在は1,000本を超える桜が咲く醍醐寺であるが、ここで花見ができるのは秀吉のおかげなのだ。

醍醐の花見は参加者は1,300人と言われている。前述の吉野の花見より人数は少ないが、驚くべきはその内容である。
なんと参加できた男性は秀吉と、親友の前田 利家、秀吉の息子・秀頼の3人であったという。それ以外に招かれたのはすべて女性であった。
美女に囲まれながら、自分が植えさせた桜を眺める。派手好きな秀吉らしい花見と言えよう。

これにちなみ現在醍醐寺では、毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」という催しが行われている。

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・おわりに

貧しい立場から成り上がった秀吉は、派手好きであった。

5,000人もの人々を集めて5日間も開催した吉野の花見。
全国から集めた700本の桜を植えさせ、1,300人もの美女を集めた醍醐の花見。

吉野・醍醐の花見は秀吉の派手好きを象徴するエピソードと言えるだろう。

一方で、それまで貴族の文化であった花見を庶民も楽しむようになったり、秀吉が植えた醍醐寺の桜が現在でも楽しめたり。

天下人・秀吉が私たちに残してくれたものは少なくない。


おわり