観た。2020/09/15『FLYING SAPA』

随分と宝塚もオシャレになったものだと思ったのは、あまり真っ当な感想ではないかも知れない。
割と真っ当で王道で生真面目なSF物なのに、ふとそんな風に思ってしまった。

装置の使い方(普通ならば禁じ手も恐れず)、照明の大胆さ(本来ならば「顔当て」必須の歌劇界隈にも関わらず振り切ったシルエット処理)、そして映像の粋な現代性(スタッフを見れば当然とは言えど、ベタな映像処理の多い……*以下自粛)。
それに本来の意味での劇伴としての効力を発揮する音楽と、極端に少ないダンスと歌(音楽劇・ミュージカル的な「歌」は皆無?)。

斬新という言葉は安易で嫌いだし、そういう意味でも、斬新とは思わない。
照明で言えば、既に『心中・恋の大和路』で沢田先生は凄まじい陰影をもたらしていたし、今回も担当されている御大・勝柴先生だって幾度となく暗闇の美学で宝塚を染めていらっしゃる。
芝居に関しても、(私の知る限りでは)太田先生はバウホールでストレートプレイも手掛けられていたと思う。
宝塚歌劇100年の歴史に挑戦されていない分野などないのだが、おそらく何度も襲い掛かってくる「自主規制的テンプレートに陥った状況」を打破するのは、やはりシンプルに立ち返った古くて新しい信念なのだな、と思う。
正しく信念が作った舞台だったし、信念で打ち建てられた作品は気高さを放つのです。

物語の硬質な趣が、歌劇ならではの疑似人類感と相俟って、少し古風なハードSFの理知的な雰囲気を美しく醸し出していた。
この美しさの一点が、宝塚である価値と意味を雄弁に語る。
それでいて、デカダンなディストピアの風情。世界の涯の宿屋というロケーションはアンニュイなダークファンタジーを想起させるし、エイリアン的な局地戦はエンタメ要素に溢れたアドベンチャーだ。
そう思うと割と娯楽作品なのだ。
でも全体に漂うのは不穏で不安なインテリ的で神経質な繊細さ、散りばめられたコトバが放つシュールな煌めきと魔術的・キュビズム的なビジュアルが見せるナイトメア。
文芸的な叙事詩……というのは言い過ぎか。
これはブレードランナー?いや、やはりタルコフスキーだろう。
タルコフスキーの描く夢幻の、しかし数学的で静謐な空間に迷い込んだような感覚だ。

くーみんとSFの話は余りしなかった気がするけれど(それは僕的には、小柳ちゃんの領域だった)、こんな一面もあるのだね、と。

人間の厳正さと冷徹さを描くのは、くーみんの得意とする所だろう。
この物語の主役はゆーちゃんさん(と若かりし頃を演じていた若手?さん)の科学者=独裁者で、主人公は所謂「巻き込まれ」型だ。
キリコ・キュービィー……と云うのはマニアックな譬えかしらん。でも「盗まれた過去を拾い集め」てるしなぁ。素数というのも素体を思い出させたし……(『装甲騎兵ボトムズ』という80年代アニメの話です・笑)。

さてさて。
歌劇の男役・娘役は加工された人体を持つ疑似人類なのだけれど、人々の立ち居振る舞いには端々に現代的なリアリティもあって、生々しさと肉薄している部分もあった。
いささか病的な蒼白さはあるけれど、この辺りはジェンダーレスな21世紀の社会が生んだ新時代のジェンヌ気質なのかも……と思うと興味深い。偽るほどの性差が無いというか、性別の幻想が少ないので同時に見せかけの含羞も無い、と言うべきか。
また、実体のない肉体の実感とでも言うべき感覚は、男女の違いは本質的な個人の人間性の違いには及ばないとは思っていても、(こと歌劇においては)女性演出家の手掛ける作品に多く見られる気がする。

演劇と言うのは、詰まるところ肉体の発露であるから、如何に覆い隠す文化の歌劇と言えど、発信源たる肉体を自らと同一のものとして深く知る方が、物語の中に、より動物としての自然な身体性を導きやすいのかも知れない。或いは演じ手も、無意識に「同じ人間」の地平に立っている可能性もある。
これは一概には言えないし、ジェンダーや性自認の領域にも及ぶ繊細な話だ(「違う」からこそ伝えられるものもある)。
そして、何よりも物語の理解と傾倒が演じ手の在り様を変えるのだから。
何にせよ、優れた作品を生み出す人間が(相性というものは必ず存在するけれど)優れた導き手であるのは間違いない。
リアリティというのはファンタジーの中にも存在するし、ファンタジーを徹底すればリアリティを構築できる。物語世界でリアルに生きる、リアルではない人物造形は、作り手と担い手の真摯で理性的な客観性と、豊かで鋭敏な情感によって形作られる。

リアリティとはまた違う意味での生々しさ、エネルギーに溢れた芝居の上での人間臭さ、「演技」で構築された仮想世界の住人としての醍醐味・妙味を豪快に発していたのは、いっちゃんさんだ。
「お芝居」を見る喜びを堪能させて頂いた。芝居に嘘がない、とはこういう事だろう。役者の素顔など越えた人物造形の太さに、役者の人間としての血が通って生きているのが見事。本人と役との融合が透けて見える繊細な世代を吹き飛ばす芝居の楽しさ、ここにあり。

宝塚っぽくないと言えば、そうだけど。まごうことなき宝塚な舞台。
階段も好き、羽根も好き。甘々のデュエットも、くすぐったいブロマンスなバディ物も、壮大な歴史絵巻も好きだけど。年に一本か二本は、こういう作品が無いとね。と、今は無関係だから無責任に言えますね。
作者のくーみんは今でも仲良くしてもらっている後輩の一人だし、才能と感性と知性を尊敬しているけれど、それだけではなく。
宝塚が演劇集団であることの自負と気骨が感じられて嬉しい観劇でした。
あくまでも個人的な感想として、なんかスキっとした気分で観ることが出来たのです。
これでまた、羽根とスパンコールに溢れた宝塚十八番の舞台も新鮮な気持ちで見られる気がします。
宝塚の素数はまだまだ解き明かされない謎だな。

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