28年前。

1/17の此の日は、28年前を思い返します。長文です。

星組さんの中日劇場公演、大関先生の『若き日の歌は忘れじ』と村上先生の『ジャンプ・オリエント』の演出助手に付いており、お稽古中でした。
大阪の箕面にあった我が家は大いに揺れて停電したものの、すぐに復旧。
直後のテレビのニュースは簡単なもので「神戸では火の手が上がっています、お気を付け下さい」と言う程度でした。自分も、棚から落ちた本やら何やらを片付けて、また寝たくらいです。

その日はショーのお稽古日で、自転車で阪急・石橋の駅に行ったら電車が止まっておりまして。公衆電話で、同じく助手に付いていた先輩の木村先生のお宅に電話しました(携帯電話は、この震災後に飛躍的に普及したように思います)。そうしたら奇跡のように繋がって。でも、その時は何も知らないので、奇跡とか思ってはいませんでしたけれど。
開口一番、「お前は無事なのか!」と叫ぶ木村先生。普段から、表現大き目な方だから、余り切実にも思わず。
「何とかして行きます。でも遅れてしまいます。すみません」と言ったら、
「来るな! お前は絶対来るな!」と。
「はいはい」と言って電話を切った記憶があります。生意気な後輩ですね。

駅のタクシー乗り場には車も無く、どうしたものかと国道171号線に出てみたら、奇跡のように(これは、その時も奇跡だと思いました)作曲の中元先生が車で通り掛かられ、「乗ってく?」と。
先生も僕も、大きな地震だったけれど特に危機感は無かった気がします。しかし、車が西に進むにつれ……。

昼過ぎに劇団に着きまして。
ファミリーランドの、大きな温室がひしゃげて、ピサの斜塔のように傾き……劇団近くの高架では電車が横倒しになり……。
それでも(半信半疑だったと思いますが)歌稽古の時間にいらっしゃったポッポさん(貴柳さん)と、にゃん(羽純さん)に会いました。勿論、稽古なぞ出来る筈もなく、「ホントに無いわね? 後からあるって言っても、もう戻ってこないからね!」とポッポさんは帰られました。或る意味、律義で冷静でいらっしゃいました。
颯爽と自転車に乗った音楽の吉崎先生にも遭遇。先生は、当時は花の道にあった宝塚音楽出版(後のTCA)の片づけをしてきた!と朗らかに頼もしく仰って……やはり、戦前生まれの方は強いなと妙に感心したのを覚えております。

中元先生には、車に乗って帰ろうと気遣って頂いたのですが、一応劇団の中に入ってみますと申し上げて、そこでお別れしました。
どうやら劇団の近所に住まう同輩たちは午前中に来て、可能な限り片づけ物をして帰ったようで、事務所にはほとんど人はいませんでしたね。
建物二階の劇場・楽屋への扉を恐る恐る開けて、下手袖にある舞台事務所やお稲荷さんのあたりまでは進んだのですが、暗闇に滴り落ちる水の音(スプリンクラーが作動したとのこと)に、足が止まってしまいました。いや、危険だから、それで良かったんですけどね。

どうやって箕面まで帰ろうか、何も考えていなかったんですけれど(笑)、ちょうど村上先生もいらっしゃっていて。
先生がお車だったので、劇団の建物に避難していらっしゃった、ご近所に住まわれているOGの方お三人ほどと便乗させてもらいました。

先生は箕面の隣、池田にお住まいで。たぶん、御自宅は左程被害は無かったと思います。その日の振付は家城先生でしたけれど、家城先生は東京で地震のニュースをご覧になって、朝一番に村上先生に連絡をされ、劇団に行った方が良いかどうかを確認されたそうです。村上先生は「全然、大丈夫だから来て」と……。結果、飛行機で伊丹空港に降り立った家城先生はタクシーで西に向かう内に、こりゃ駄目だと思い引き返されたそうです。

村上先生、愛と敬意をこめて「むーちゃん」とお呼びする大先輩は、後にプロデューサーに転身され大変お世話になりましたが、暢気と言うか鷹揚なところがお有りで……演出助手としてお仕えしている時も、演出家として対応して頂いた時も、甚だ失礼ながらツッコミ続けていたのです。本当、生意気な後輩ですね。
ただ、やはり猪名川の東側が主である池田・箕面と、その西側にある川西や宝塚では、地震の影響に雲泥の差があったのだと思います(勿論、猪名川以東でも被害のあったところはあります)。だから、その時の村上先生の応答も、むべなるかな、といった感じです。
私にしても、村上先生のお車の中でラジオが告げる被害者の数が分刻みで増えていくのを聞いて、改めて戦慄したものです。
でも、「コーヒーでも飲んで帰ろか」と、やっぱり暢気なむーちゃんでしたけれど。いや、本当に、ほんの少しの土地の違いで日常と非日常が背中合わせになっているような状況でした。

数日間、劇団からの連絡待ちで待機していました。劇団近辺に住んでいた演出部の仲間たちは、避難所に行ったり知り合いのお宅に身を寄せたり。
大劇場の花組さん、安寿さんのサヨナラ公演『哀しみのコルドバ』と『メガ・ヴィジョン』は中止。確か新人公演の当日で、早朝からお客様も沢山並んでいらっしゃったそうですが、御無事だったとは聞いています。
花の道の両側は……すべてが平らに地ならしされたようでした。
雪組さんの、高嶺さん主演のバウホール『グッバイ・メリーゴーランド』も当然中止。
東京の日本青年館、香寿さん主演の『風に吹かれて』は荷送り前の大道具が破損して中止。演出の横澤先生の安否がわからず、皆が心配した瞬間がありましたが、先生は前乗りで東京に行かれていて御無事でした。
そして、お稽古中だった月組さんの大劇場『ハードボイルドエッグ』と『EXOTICA!』も中止が決まり(若央さんのサヨナラでしたが……)、星組さんは絵麻緒(当時)さん主演の『殉情』が中止となりました。
ただ、麻路さん主演の中日劇場公演は、稽古も既に残り少ない時期で劇場も名古屋なので、上演を敢行することに決まりました。

梅田のドラマシティや、(たぶん)阪急百貨店さんが持っていらっしゃった体育館、愛知の厚生年金会館にあった稽古場を渡り歩き、何とか初日に漕ぎつけました。
当時は自分の仕事でいっぱいいっぱいでしたが、色々と準備し調整して下さった多くの方々の御尽力に今更ながら感謝いたします。

星組さんが4番教室に集められ、中日の上演とバウの中止を劇団側から告げられた日の事、皆さんの厳しいお顔つき。忘れられません。
稽古を再開したドラマシティのお稽古場での初日は振付の喜多先生の固めでした。あの時の何とも言えない高揚感、不安と安堵が入り混じった熱気、喜びと悲しみが交錯する感動も、また忘れられません。

その後、
花組さんは安寿さん主演のバウホール『LAST DANCE』(助手でした!)を経て、東京宝塚劇場でも前述の作品が無事に上演されました。同作は劇場飛天(当時)での振替公演もあり、更には安寿さんのサヨナラショーだけが特別に大劇場で催されたり(ヤンさんは三回もサヨナラショーをされた稀有な方なのです)。
月組さんは、やはりバウホールでの特別公演『Beautiful Tomorrow 』(これも助手でした!)があり、千穐楽には若央さんのサヨナラショーも執り行われました。大劇場の作品は東京公演の後、ショーの『EXOTICA!』が、この年から始まったTCAスペシャル(TMP音楽祭からの改称)でも上演されました。
雪組さんは『グッバイ・メリーゴーランド』の東京公演が行われ、同作は秋にもドラマシティで上演されました。
星組さんは、麻路さんの大劇場お披露目公演。この公演より大劇場が再開されたのです。

早期での大劇場再開は勇気のいる事だったと思います。こんな状態でこんな時期で再開してよいのか、当時は複雑な気持ちでしたが、被災されても劇場にいらして下さったお客様が、変わらず歌劇が上演されている事を喜ばれているのを見て、非常時にこそ演劇の力が必要なのだと思い至りました。それは、東日本大震災、コロナ禍において、更に強く感じる事でもあります。
大劇場は続く雪組公演でもまだまだ客足は少なかったのですが、着実に復興を遂げていきました。

当時、私も(大学生であった1993年から数えると)入団三年目、この年と翌年、翌々年あたりが演出助手として恐ろしいほど忙殺された時期ですが、同時に仕事の心得も何となく付いてきて、楽しい時期でもありました。
また、それは別のお話で。



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