マガジンのカバー画像

気まぐれエッセイ

92
時に幸せを、喜びを、 時に苦しさを、寂しさを、 その日その時ありのまま、気まぐれなエッセイたち。
運営しているクリエイター

#言葉

眼と言葉と

僕は純粋に生きたかっただけだ。   美しいものを 美しい眼と 美しい言葉で 象りたかっただけだ。   心地良くも汚く薄汚れた人生を 味わい深い眼で 味わい深い言葉で 象りたかっただけだ。   何の意味もなく、ただ生まれただけの命を 意味あり気な眼で 意味があるのだと確信できる言葉で 象りたかっただけだ。   何故だろう。 何時からだろう。 この世界を、ただそれだけのために生きられなくなってしまったのは。

言葉以外でも、たくさんのことを伝えられると思うんだ。

「言葉は網のようなものである。」   これは高校時代、現代文の評論に書かれていた言葉だ。   言葉は網のように世界中に張り巡らされているけれど、 捉えられるのは網の紐が張られている部分だけ。  網の目よりも小さな物や概念は、スルスルと間を抜けていってしまう。 といったことを伝えていた文章だったと思う。   しかしながら皮肉なことに、 言葉の限界を伝える評論を読んだ私は 「いや、でも、『言葉の限界』を言葉で表現してしまうのが面白い!」 と”言葉”というも

人も土地も、別れ際が一番美しいのかも知れない

8月から始めた旅。   高千穂で自然農を味わう滞在を経て、 長崎県上五島にある、マリンアクティビティを行うカフェ&宿で1カ月を過ごした。           大好きなコーヒーを、 直焙煎豆から初めてハンドドリップで淹れさせてもらったり、   島民の方々と飲んでワイワイ騒いだり、   定置網漁をお手伝いして、獲れたての美味しい美味しいまかないを食べさせてもらったり、   オーナーさんのお家に居候させていただき、 奥様と子供たち2人と賑やかな食卓を過ごさせてもらったり。    

コーヒーと母と私

私はコーヒーが好きだ。 こだわっているお店で飲むコーヒーも、 道を歩いていてふと買ってしまう缶コーヒーも、 苦いのも甘いのも、 好きだ。 母はコーヒーが好きなのかは分からないけれど、 小さい頃から必ずキッチンには、缶コーヒーか、 インスタントコーヒーが入ったカップが置かれていて、 立ってタバコを吸いながらコーヒーを飲む姿は、 毎日のように見ていたからだろうか?今でも記憶に残っている。 今日、瓶ビールを2本飲んで、 いい感じに酔っ払って歩いていたら、 母が昔よく買って

近くに居る人ほど大切にできないように、人はできているのかも知れない

近くに居る家族や恋人、友達… そんな人ほど、当たり前に思ってしまう、大切にできなくなってしまう。 そんなのは、耳にタコができるくらい 聞いたセリフだと思う。 故郷は、離れるからこそ懐かしくなる。 大切な人は、失ってから愛おしくなる。 自分を探すために、わざわざ遠くに旅に出る。 人はもしかしたら、 近くにある場所を、 近くに居る人を、 目の前にある時を、 大切にできないようにできているのかも知れない。 失いたくない大切な人たちと、 誰よりも近くに、誰よりも遠くに、 居ら

空間っていいよね。 "有"と"有"に挟まれた、何も無い場所なのに、 そこに人が集ったり、 そこに安らぎが生まれたりするんだもの。 透明っていいよね。 透き通ってなにも無いみたいなのに、 "透明"があるから"透明"って呼ばれてて、 透明があるから、透明の先がとっても綺麗に見えるんだもの。 空間に安らぎが生まれるように、 透明が景色を綺麗に見せるように、 "何もないこと"が人生を豊かにするんだなぁ。

諦めろ

私たちは、 歴史の長い長い河の中で流されているだけの存在なのだと自覚する。   自分が抱いた使命感ややりたいことは、 今の時代背景が作り出した産物。   時代が過ぎれば 「令和の民衆はこんな出来事から、このような思想を持つようになった」 と解説されるだろう。   流されているだけ。微力。ちっぽけ。   何者かになれると思うから、 何者かになれない自分を卑下し 輝くあの人に嫉妬する。   自分は他の誰とも変わらないのだと、 地に生える雑草、転がる石ころと変わらないのだと、 自覚

自己顕示欲にまみれたこの指は、 ついさっきまで幼い子どものあたたかな体温を感じていた。 煮詰まったこの頭は、 ついさっきまで自由に美しい言葉を愉しんでいた。 小さな画面を凝視するこの二つの目は、 ついさっきまでにこやかな風景を見つめていた。 何かがずっとある、賑やか過ぎるこの目の前は、 少し前まで、何もなかった。

生きている途中

夜、静まりかえった道を、もくもくと歩き続けるのが好きだ。         沿道の木々や土は、香り豊かなことに気づく。   光は、どこかに進んでいるのだということに気づく。   夜の靄が身体を包み込み、虫の音と共に身体の芯に染み渡ってくる。   どこからかやってきた蜘蛛の巣が腕に絡み、ぞわぞわっとする。   車の音や、ふと目に入った木々に、ゾッと恐怖が沸き起こる。   遠くに望めるビルやホテルの明かりに、私は確かにこの町の一部なのだということを実感する。         歩くこ

便利になるほど、自分を信じられなくなっていく

私のGoogleカレンダーには、 たくさんの予定と、その予定で忘れてはいけない事項と、タスクと… たくさんの情報が入っている。 大抵のことは、Googleカレンダーをチェックすれば問題なく思い出せる。 なるべくGoogleカレンダーに全てのことを書き込むようにしたのは、 脳の容量の節約のためである。 人間は126bitまでの情報量しか処理できないとされており、 「これ覚えておかなきゃ」という雑念はなるべく排除した方が、目の前の物事に集中できる。 効率化を目指す

強い不安と共に生きている気がするのです。

何か結果を出すために活動を続けるのは、 無条件に自分を信じることができず不安だから。   理論武装をするのは、 結果が読めずにコントロールできないのが不安だから。   一発芸を27個持っているのは、 27回までの無茶振りに答えられない自分が不安だから。   熟語や横文字をよく使うのは、 簡易な言葉を使って、表したい意味合いを伝え逃してしまうのが不安だから。   頻繁に悩み、数日寝て過ごしたりするのは、 大きな身体・精神的ダメージを、気付いた時には負っていた、というのが不安だか

反対側にいる人が、憎く愛らしい

俺は自分の反対側で生きている人が嫌いなのだと思う。 でもきっとどこかで惹かれている。 自己確信が強い人が嫌い、 純粋な人が嫌い、 ありのままで愛される人が嫌い。 自己確信が強い人にはなれない、 純粋な人にはなれない、 ありのままで愛される人にはなれない。 本当は自己確信が強い人になりたい、 純粋な人になりたい、 ありのままで愛される人になりたい。

ほんとうの自分の道を、ちょっとだけ選んじゃったりする

映画は、私に寄り添ってくれる存在だ。 一人思い耽る夜、 一本の映画は、そのストーリーの中で、 私の日常を描き、私の敵を映し出し、私の本音を叫び、 私のちょっと先をいく。 「ほら、こんな風に生きてみたいんだろう?」 自分が苦戦している困難を乗り越えた映画のストーリーたちが、 そうやって私の背中をぽんと叩く。 いつになったらこんな綺麗な物語になるんだろうか。 なんて、果てしないこれからの人生に嘆息を漏らしながらも、 ほんとうの自分の側の道を、 ちょっとだけ選

徹底的にダメになりたいときってあるよね

久しぶりにタバコを買った。 徹底的に落ちぶれたかったんだと思う。 早朝からベランダで、 タバコを吸って、 ウィスキーをあおる。 嗚呼、なんて素晴らしきクズ感だろうか。 どこまでも落ちぶれていきたい、 何も考えず、このまま惰性で生きていきたい。 これほどまでに、惰性に浸らせてくれる時間があるだろうか。 数ヶ月ぶりの煙が身体に染み渡る。 ウィスキーの強いアルコールが全身を駆け巡る。 ウィスキーの辛さが、煙の辛さが、 互いの繊細な香りのコントラストを引き立ててくれる。 生