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父の記憶

記憶のタイムマシンが一気に時間を遡った。
そういえば、私の父はどんな人だったのだろう。
私は、父親っ子だったらしい。

優しい時と厳しい時が極端な人だったように記憶している。

父は、私が中学生の時に他界した。一週間自宅で寝込んだのが最後だった。

死に際

ある日、学校から帰ると、父が布団の中にいた。
珍しいなと思い、そばに行くと、ちょっと具合が悪いだけだから大丈夫と言っていた。ふーん、と思い、あまり気にもかけなかったが、次の日も同じ状態が続いた。少し父の口数が減った。
次の日、枕元に酸素吸入機が置かれ、口元に酸素マスクをつけていた。
子供心に、ちょっと変だなと思い、「大丈夫」と声をかけてみたが、うなづくだけで声はなかった。
こんな調子で6日目に父が私を枕元に呼んだ。なぜか、布団が逆さまになっていて昨日までは足の方だった方に頭がある。あれ、一回起きたのかなと思った。

「これからは、母さんを助けてあげるんだぞ、男なんだから」
「うん、わかった、わかった」

状況を理解できていない私は生返事しかできなかった。どうやら、死期を悟っていたらしく北枕に布団を敷き直させたらしかった。そして、これが父との最後の会話になってしまった。次の日の朝。母が号泣する声で目が覚めた。

そこには帰らぬ人となってしまった父が眠っていた。
まだ、死というものを理解しがたく、何度も父の瞼を開けようとしたことを覚えている。

さらに時間を遡ってみる。

幼い時

私が幼い時、父が病院にいく時は、いつもお供役だった。
若い頃は頑丈な体だったらしいが、心臓が弱ってからは通院の日々だったようだ。

私には幼ない頃すぎて記憶がない。
私の記憶のタイムマシンでもいくことができない。

お供役だったのには理由があった。いつも母から言われていたらしい。

「父さんが倒れたら、頬と胸のところを思いっきり叩きなさい」

どうやら、時々心臓が停止していたらしい。大抵は1-2秒で復活していたようだが、ダメな時は外部からの刺激を与えることもあったのだそうだ。私が、倒れた父を叩いて起こした記憶はない、というより、一緒に病院に行ったという記憶すら曖昧なほど遠い過去のことである。後から母に聞かされたことだった。

当時の我が家にはお風呂がなかった。なので、近くの銭湯に父親と一緒に行っていた。銭湯は、大抵が更衣室と湯船のあるところの間が引戸で仕切られている。
その頃は、鉄のレールのようなものの上に扉が乗っかっているものだった。たがい違いに引戸があるのでレールも2本だった。

小さかった私は、知らない誰かがお風呂から上がってきて、ちょうど扉が空いたところを見計らって駆け出した。レールの向こう側はお風呂場なので濡れている。
そう、ご想像の通り、滑ったのだ。すってんころり。
またまた、運悪く、後頭部をレールに打ち付けたらしい。血を流して気絶した。

父は、びっくりはしたが慌てることなく対処してくれた。医者に見せて、大事ないということで自宅に連れ帰られた。まだ目は覚めていない。
気がつくと自宅の布団の中にいた。何が何だか把握できなかった。

しかし、この時何事もなかったので、今の私が存在しているのである。

小学生の頃

やや記憶がはっきりしている頃である。この頃は、父は独学で書道の師範免許をとった。九州書道というところで師範免許を取得し雅号として「照山(しょうざん)」と付けてもらった。
その後、父は自宅で書道塾を開いた。
最初の頃は親類の子供たちを中心に教え始める。

もちろん、私もその一人だった。そのうち、大人や街の子供たちも集まってくるようなったが、儲けることに興味のない父は、必要なコストのみを回収するための会費しかとっていなかったようで、母は大変だっただろうと思う。

小学校でも習字クラブというのが存在していて、4年生ごろから参加し通うことになった。しかし、父からかなり教えられた後だったこともあり、小学校の習字クラブでは学ぶことがほとんどなく、段だけを取得して辞めた。

というより、理由は覚えていないが、父が、その時の習字の先生と喧嘩をして辞めさせられたようだ。どうも教育方針でのぶつかり合いがあったというようなことを後々聞いたように記憶している。怖いくらい真っ直ぐな性格の父だった。

小学3年生の時も学校に怒鳴り込んで行ったこともあったようだ。そんなこともあり、先生の間でも一目置かれる存在だったようである。

国語の時間で時折、習字の時間というのが存在した。私は、その時間の時だけ先生の代行を頼まれ、朱色の墨で同級生の習字を添削する係だった。
ちょっとだけ、天狗になれる時間だった。

真っ直ぐな性格の父は、怒ると怖かった。悪戯なんかしようものならこれでもかというほど怒られた。ある時、父が何かを言った時、「えー、うそー」と言ったことがある。「嘘なんかいうわけないだろ」というのと同時にパーンと平手打ちをもらったことはよく覚えている。昔は、よく殴られたり蹴られたりしたものだった。今だったら、大問題になるかもしれない。

中学生の頃

中学生になると父の書道塾では、大人と同じ時間に学ぶようになった。
この頃になると、結構苦痛を感じるようになっていた。

塾は土日で開催されていたので、遊ぶ時間がなかなか取れなかった。
土曜日の午後は子供達の時間で私は先生役を担当し、日曜日の大人の時間は生徒として学んだ。
毎週ではないにしろ、かなりの自由になる時間が奪われていた。

そんな風に思いながら過ごしていた反抗期の中学2年生の時に、父は床に臥してしまったのである。そして、旅立っていった。。。

なんともいえず、受け入れ難い事実がそこにあった。


旅立ちから一週間

父が旅立った後、なんとなくいつもと違う空間を家の中に感じていた。
いつもなら、3人いるのに母と2人。いつも机の前に座っている父がいない。
そんな光景を現実として受け止めるまでにしばらく時間がかかった。
仏壇や写真を見ても現実とは受け止められなかったのである。

なんとなく、自分の中で認識したのは一週間が経過した頃だった。
毎日繰り返される光景が現実なんだと解ったのだろう。

「そうか、父さんはもう戻らないんだ。ここにはいないんだ。」

気がつけば家の裏にある神社の前の小さな山に登っていた。
一人崖っぷちに座って、ただただ泣いた。涙が止まらなかった。

自分の中で何かを吹っ切った瞬間だった。

それから、私は「書」から離れた。

父と違う道を歩くために。
いつの日か、父に追いつき追い越すために。


記憶のタイムマシンは現在に戻ってきた。
父が亡くなった時と同じ歳になった。63歳。

追いつき、追い越すことはできたのだろうか?
いつの日か再会できた時に聞いてみたい。。。

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