見出し画像

【コース紹介コラム⑧】藤沢市民病院 第3回 ONSENガストロノミーウォーキングin藤沢 

2023年4月30日 第3回ONSEN・ガストロノミーウォーキング in藤沢〜湘南藤沢の歴史をつむぐ、「藤」の花めぐり〜を神奈川県藤沢市で開催します。ここでは、イベントの会場となるウォーキングポイントをご紹介していきます。

⚫︎ 藤沢市民病院(藤沢市藤沢2-6-1)

御殿辺公園の隣隣接した病院で、昭和46年(1971)に開設しています。

藤沢市民病院(撮影:堀浩侃)

徳川家康ゆかりの「藤沢御殿」

 NHK大河ドラマ「どうする家康」主人公徳川家康にゆかりの場所が旧藤沢宿にあります。徳川将軍家専用の宿泊・休憩施設です。慶長5年(1600)徳川家康は藤沢御殿に宿泊して鎌倉に向かっていますので、慶長元年(1596)にこの御殿は造営されたといわれています。

 現藤沢公民館から西側一帯にあり、長さ約100mの御殿通りで東海道に通じていました。広さは東西156m、南北66mの長方形で敷地面積約3,120坪、周囲を深さ4.5mの堀りと、高さ5.5mの土手で囲まれ、単なる宿泊所というより要塞ともいうべき施設でした。(総面積約6,500坪)

 宿泊の記録を見ますと、回数は28回、三代将軍家光の上洛(じょうらく)の寛永11年(1634)までです。特に慶長年間の利用は多く、関ヶ原の合戦や大阪の陣など軍事行動に利用されました。将軍上洛廃止に伴いこの御殿も廃止され、新たに参勤交代が導入され、本陣、問屋揚が設けられました。その後、江戸で発生した明暦の大火(1657年)に伴う江戸城再築のために御殿の建材が当てられました。藤沢御殿のあった周辺には今でも「御殿辺」「御殿橋」「陣屋小路」「陣屋橋」「鷹匠橋」などの地名が残っています。

 平成12年(2000)8月には藤沢御殿に関する考古学的な初めての調査が行われ西側の堀の遺構が確認されています。

家康の藤沢御殿宿泊

 慶長5年(1600)6月18日、徳川家康は会津の上杉景勝(かげかつ)征討のため伏見を発ち、途中26日藤沢御殿に泊まり、29日江の島の弁天社と鎌倉の鶴岡八幡宮寺に参詣しています。一説にこれは石田三成の挙兵を挑発する策動であったといわれています。

 ちょうど潮が引いて陸続きだったので、家康は岩本坊の辺りまで乗物で行きました。それから歩いて岩屋本宮まで行き、弁才天像を参拝、源頼朝に私淑する家康ですから頼朝が奥州藤原秀衡討伐戦勝祈願のため岩屋に参詣したように戦勝祈願をしたものと思われます。海辺に出ると猟師たちが船を浮かべて数々の魚類を献上しました。そして下之坊と上之坊に立ち寄り、このとき家康は漁師たちに白銀(はくぎん)を与えています。以後江の島は、藤沢御殿指定の浦となり将軍が藤沢御殿に泊まる折には鯛などの活魚を贈る習わしとなりました。さらに家康は、岩本坊・中之坊・下之坊へも各々白銀・青銅を与えています。

 その後帰路は満潮だったので舟で渡り、片瀬、腰越を経て鎌倉経由,7月24 日下野(しもつけ)国の小山(現栃木県小山市)で石田三成の挙兵(三成は西国大名を糾合(きゅうごう)して同年7月17日挙兵)を聞いて、江戸城に戻り、そして次男結城(ゆうき)秀(ひで)康(やす)を上杉景勝(かげかつ)と対陣させ、江戸城に約1か月間出陣せず籠り、ようやく関ケ原に向かい途上9月2日に藤沢御殿に泊り、9月14日美濃国赤坂に着陣、翌日の関ヶ原の戦いに勝利することで、政治の実権を握りました。


【次回】は、第3回 ONSENガストロノミ―ウォーキングin藤沢 コース紹介コラム⑨ 旧桔梗屋に続きます♪

投稿/ONSENガストロノミ―ふじさわパートナーズ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?