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【コース紹介コラム⑩】遊行寺 第3回 ONSENガストロノミーウォーキングin藤沢 

2023年4月30日 第3回ONSEN・ガストロノミーウォーキング in藤沢〜湘南藤沢の歴史をつむぐ、「藤」の花めぐり〜を神奈川県藤沢市で開催します。ここでは、イベントの会場となるウォーキングポイントをご紹介していきます。

⚫︎ 遊行寺(藤沢市西富1)

時宗の総本山、正式名称は、藤沢山無量光院清浄光寺でと称します。正中元年(1324)俣野五郎景平が開基となり、弟の遊行4代呑海上人が開山となり創建しました。遊行上人が住まわれる寺「遊行寺」として親しまれています。

藤沢山無量光院清浄光寺(遊行寺)(撮影:堀浩侃)

遊行寺 紋章「隅切り折敷(おしき)に三文字」

宗  派 時宗(総本山)

山号寺号 藤沢山無量光院清浄光寺

創  建 正中(しょうちゅう)2年(1325)

開  山 呑(どん)海(かい)上人

開  基 俣野五郎景(かげ)平(ひら)

本  尊 阿弥陀如来


時宗の布教の特色は、開祖一遍上人が熊野神から受けた神のお告げに基づいて「南無阿弥陀仏、決定(けつじょう)往生六十万人」と書かれたお札を配って念仏を勧める「賦算(ふさん)」と、鉦鼓(しょうこ)を鳴らしながら信心の境地を示すように高声で念仏を唱えながら踊る「踊念仏(おどりねんぶつ)」です。


一遍上人は、法然の門弟証空の弟子聖達を師としたが、のち賦算するにあたって、熊野神(熊野権現本地阿弥陀如来)から、「あなたの勧めですべての人が往生するのではない。昔から往生は南無阿弥陀仏と決定している。信不信を選ばず、浄不浄をきらわずに、その札を配りなさい。」との教えから「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」のお札を配っています。


一遍上人は寺を持たず、一代限りの布教と考えて捨(すて)聖(ひじり)(俗世間を捨てて、仏門に帰依する)の遊行生活を16年間続け、正応(しょうおう)2年(1289)8月、兵庫観音堂(現神戸市兵庫区真光寺)で所持していた書籍等を焼き50歳で没しました。


遊行上人が寺に居住されるようになったのは、嘉(か)元(げん)元年(1303)12月、一遍上人の跡を継いで時衆の指導者になられた二祖他阿真教上人からです。しかし、この時居住した寺院は遊行寺ではなく、相州当麻(相模原市当麻)の無量光寺(当麻山(たいまさん))でした。当時、上人の寺での居住は、遊行上人の位を次代の上人に相続してから、わずかな時衆と生活をともにした独住と呼ばれる隠居の生活でした。文(ぶん)保(ぽう)3年(1319)真教上人が亡くなり、遊行3代智得上人は呑海上人に遊行を相続させて当麻に入りました。

しかし、智得上人は、当麻山に入寺してからわずか一年で亡くなり、真教、智得2代に仕えた内阿真光が遊行上人を主張、正中2年(1325)呑海上人は安国を5代遊行上人に任じ、清浄光院を創建、独住しました。


その後、時代を重ねるにしたがって独住寺院から時宗の根拠地、総本山としての機能をも備えるようになって行きました。

*大銀杏
藤沢市の天然記念物で遊行寺のシンボルでもあります。この銀杏は、雄株で、樹齢7百年位といわれ、遊行寺ができた頃(1325年)のものといわれています。昭和57年8月2日の台風により、約三分の一が折れてしまいましたが、現在は、見事に繁茂し、見るものに活力を与えてくれます。


*明治天皇行在所跡

明治元年(1868)3月に江戸城開城、9月に江戸時代から明治へと改元し、新しい時代がスタートしました。同年9月20日京都を出発した明治天皇は

10月10日天皇の乗り物・鳳輦(ほうれん)に乗って遊行寺にやって来て中雀門からお入りになり、遊行寺を行在所にしました。その滞在中に使われました水がこの「御膳(ごぜん)水(すい)井戸(いど)」からのものです。天皇は、明治6年4月の鎌倉からの帰路、明治8年4月には皇太后も江の島詣での折に利用され、藤沢には計7度の行幸です。


*中雀門(ちゅうじゃくもん)(向唐門造り)

安政6年(1859)紀伊大納言徳川治宝(はるとみ)が建立された四脚門です。明治13年の大火でも類焼を免れ、関東大震災では倒れましたが、そのまま復元されました。遊行12代尊観(そんかん)法親王(ほっしんのう)が南朝の皇室出身、また徳川家康の祖先松平有親が時宗の僧で、尊観法親王の弟子となって当山に住んでいたので菊の御紋と三つ葉奏の紋が刻まれています。裏側に彫刻師船橋国造菅原義正が彫られたといわれる素晴らしい梟(ふくろう)彫刻があります。普段は閉じられていますが、春と秋の開山忌と正月には開門されます。


*梵鐘(延文(えんぶん)の鐘) 県指定文化財

延文元年(1356)遊行8代渡船上人の時に沙弥給阿が願主となって物部(もののべの)光連(みつつら)が鋳た梵鐘(総高170.5㎝、口径92.4㎝)です。冶工(やこう)光連は当時関東鋳物師(いもじ)として活躍した物部氏の棟梁で、他に日向宝城坊や鎌倉補陀落寺(ふだらくじ)の鐘なども鋳ています。

この梵鐘は永正10年(1513)に後北条氏により小田原城に移され、さらに下郡の寿昌寺に転移されましたが寛永3年(1626)遊行寺檀徒中里八郎左衛門理安によって取り戻され、ここに設置されました。市内最古と思われ戦時中の供出からも除外された貴重なものです。鐘楼の前には理安夫妻の墓とその子理益の墓碑があります。


*放生池(ほうじょういけ)・菖蒲園

「生類(しょうるい)憐(あわれ)みの令」は江戸幕府5代将軍綱吉の時代(1680~1709)に、生類を憐れみ虐待を禁じる法令が次々と発令されました。

この放生池は、江戸幕府の記録である『徳川実紀』によれば、「金魚、銀魚等を放生せんと思わば、清浄光寺(遊行寺)道場の池へと令され、かつ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべし」と記録されています。金魚は緋鯉(ひごい)、銀魚は真鯉(まごい)でこの池に放されたのです。

古来より由緒あるこの池に緋鯉、真鯉等を放生すれば、この功徳により、家内の繁栄はもちろんのこと長寿を保つとされています。

池の中には昭和41年に建立された聖観世音菩薩像を祀る中島を配し、毎年4月21目に放生会(ほうじょうえ)が行われています。池のほとりには、平成9年4月、遊行会の寄進で遊行他阿一雲の書による「魚(ぎょ)鱗(りん)甲貝(こうがい)供養塔」が建立されています。

小書院に行く渡り廊下の右側に菖蒲園があります。これは明治神宮と鎌倉光明寺から移植された菖蒲で、その時期になると色とりどりの花菖蒲が楽しめます。(無料開放)


* 宇賀神(うがじん)

字賀神とは、穀物の神・福の神・長寿の神で、天女形が多く、弁財天と同一視されます。この宇賀神は丹後国竹野の大字賀神社、伊予国大山祇(つみ)神社と並び日本三宇賀神と呼ばれます。この宇賀像は徳川家康の祖先松平有親(ありちか)の守り本尊といわれ、遊行12代尊観法親王の弟子となり、徳阿弥と、長子の親氏(ちかうじ)は長阿弥と改められました。次男泰(やす)親(ちか)が独阿弥となり、三河国大浜称名寺に移られるとき、宇賀神が遊行寺に奉納されたと伝えられています。親氏はのちに三河国松平の酒井家の養子となり、泰親は松平家の養子となり、その子竹若丸は松平を、次男竹松は徳川信光と称し徳川家の先祖です。

寛政6年(1794)11月当山が焼失した際、宇賀神殿も類焼、幕府に願い出て白銀30枚を再興費用にいただいています。天保年間にも宇賀神殿再興にあたって、同様の費用をいただいています。現在の建物は、明治13年大川家の火事で類焼し後に再建されたものです。裏に弁財天像と銭洗池があり、俗に銭洗弁財天として信仰されています。昭和9年7月、遊行67代他阿尊浄上人によって「八大龍王碑」が建立されています。


*歴代上人の御廟所

藤沢山清浄光寺開山上人呑海大和尚を祀る「開山塔」を中央正面に安置し、両側に遊行・藤沢(とうたく)両上人を祀っています。なお遊行の旅先で入寂された31名の上人はそれぞれの地に埋葬されていますが、上人によっては分骨によってここに埋葬されている方もいます。また宗祖一遍上人の御廟所は神戸市真光寺に、2代真教上人・3代智得上人については、相模原市無量光寺の御廟所に眠っています。


*敵(てき)御方(みかた)供養塔(怨親(おんじん)平等碑) 国史跡

応永23年(1416)、鎌倉を中心に足利持氏打倒のため上杉禅秀の乱が起こり、多数の将兵・軍馬が亡くなりました。乱鎮定後、時の遊行寺住職14代太空上人が一山の僧や近在の人々と「敵味方」の区別なく埋葬供養し、三周忌にあたる応永25年(1418)、足利持氏を施主として供養塔を建てました。

供養塔の銘文(釈文(しゃくもん)

南無阿弥陀仏(太空上人による)

「応永23年10月6日から兵乱が起き、翌24年まで続きました。日本のあらゆる所で戦があり戦火を被り、敵も味方も箭(や)にあたり、刀で切られ、水に溺れ、戦火に焼かれて命を落とす人馬や家畜の亡魂が皆浄土往生がなしとげられるようにこの塔の前を通る者は手を合わせて十念(南無阿弥陀仏を十遍唱える)するように」


*長生院(小栗堂)

紋章「隅切り折敷に三文字」(宗紋)

宗  派 時宗(もと遊行寺の塔頭、古くは閻魔堂と呼ばれていました)

山号寺号

創  建 永(えい)享(きょう)元年(1429)

開  山 遊行寺住職14代太空士人

開  基 照手姫(太空上人の弟子となり、長生尼と号した)

本  尊 阿弥陀如来(平安後期作、市内最古のもので市重要文化財)

元遊行寺の塔頭、古くは閻魔堂と呼ばれていましたが照手姫がこの堂の傍らに草庵を結んで住まわれたことにより長生院と改称しました。境内から江戸時代末に南北朝時代の時宗板碑(いたび)2基が出土、市指定重要文化財になっています。

本堂裏には小栗判官・十勇士・照手姫・鬼鹿毛などの墓とされる石塔があります


【次回】は、第3回 ONSENガストロノミ―ウォーキングin藤沢 コース紹介コラム11 藤沢宿交流館 に続きます♪

投稿/ONSENガストロノミ―ふじさわパートナーズ


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