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【コース紹介コラム11】ふじさわ宿交流館 第3回 ONSENガストロノミーウォーキングin藤沢 

2023年4月30日 第3回ONSEN・ガストロノミーウォーキング in藤沢〜湘南藤沢の歴史をつむぐ、「藤」の花めぐり〜を神奈川県藤沢市で開催します。ここでは、イベントの会場となるウォーキングポイントをご紹介していきます。

⚫︎ ふじさわ宿交流館(藤沢市西富1-3-3)

旧藤沢宿から遊行寺橋を渡ると遊行寺手前右に交流館があります。

旧東海道は、江戸方から遊行寺坂を下った境川の手前で直角に右折し、そして直角に左折します、所謂街道を二度直角に曲げ、外敵を進入しにくいようのにした「枡形」を通って宿場の中心に向います。この辺りは「広小路」と呼ばれ交流館は広小路内にあった旧労働基準監督署跡に、平成28年(2016)4月に開館しました。管理運営は(公社)藤沢市観光協会で、多目的ホール・郷土資料室・貸会議室等が利用でき、歴史講座や宿場寄席、演劇、ミニコンサートなどを開催。建物前には高札場が再現されています。旧藤沢宿を訪れる訪問客や地域の人々の交流の場として賑わっています。

*旧藤沢宿の歩み
藤沢は旧東海道を境として北側の相模原台地と南側の湘南砂丘から成り立っています。


鎌倉時代の正中(しょうちゅう)2年(1325)遊行4代呑海上人によって「遊行寺」が創建され、以後門前町として栄えました。


永正10年(1513)正月29日、遊行寺は三浦・後北条両軍の合戦による兵火で焼亡、本尊を駿府長善寺に移しました。この時代の東海道は、藤沢を通らず、鎌倉を発つと相模川渡河に利するための水駅・懐(ふところ)島(じま)が第一の宿で、相模川を渡って第二の宿が平塚でした。

弘(こう)治(じ)元年(1555)に藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を置き森木之助が伝馬役を務め、藤沢は宿駅として成立しました。

室町時代になると、戦国大名は城から国境までの幹線道路の宿駅に伝馬を常設するようになり、後北条氏も小田原から相模川~藤沢~玉縄の交通ルートをつくりました。


天(てん)正(しょう)18年(1590)7月、後北条氏が豊臣秀吉に降伏し、徳川家康が駿河、遠江(とおとうみ)、三河、甲斐、信濃の5ヶ国から関東に移封(いほう)(国替)されました。翌8月、江戸に入った家康は早速、鷹狩と称して関東各地を視察し、在地土豪の懐柔(かいじゅう)と家臣団の配置・統制に努めました。この時、藤沢では遊行寺、渡内では福原家、用田では伊東家などが休泊所として利用されています。この時、福原家は家康一行の案内役を務めています。福原家は、中世の三浦一族の流れをくむ旧家であり、江戸時代に入ってから、地頭松平甚(まつだいらじん)右(う)衛門(えもん)正(まさ)次(つぐ)の支配下で名主役を務め、天保(てんぽう)10年1839)、福原高峰(たかみね)は『相中留恩記略』を編纂して幕府に献上しています。

慶長(けいちょう)元年(1596)、藤沢に御殿や代官陣屋が設置されました。代官頭彦坂元(ひこさかもと)正(まさ)が藤沢を支配しました。

慶長5年(1600)6月18日、徳川家康は会津の上杉景勝(かげかつ)征討のため伏見 を発ち、途中26日藤沢御殿に宿泊して29日には江の島に参詣しています。徳川家康は、関ケ原の戦いに勝利をおさめると幕府諸制度の整備にとりかかり、かって戦国大名が行った伝馬制度を基礎にした交通網の整備を行いました。 

慶長6年(1601)、東海道、江戸~京都間の53の宿駅を順次設置、当初藤沢宿は江戸から4番目の宿駅で、宿内は、東の鎌倉郡大鋸町、境川を越えて高座郡大久保町、坂戸町でした。

慶長9年(1604)に戸塚宿が宿駅になり、さらに元和(げんな)9年(1623)に川崎宿ができ、江戸から6番目の宿駅となりました。

慶長12年(1607)遊行寺は100年近く無住の寺でしたが、遊行上人普光が再建しました。

慶長18年(1613)江戸幕府は時の遊行上人に馬50疋の伝馬朱印状を与えました。これによって遊行上人は廻国の際、諸国の宿場において伝馬50疋を徴発する権限を得ました。

寛永(かんえい)11年(1634)8月19日の三代将軍家光の上洛(帰り)を最後に藤沢御殿も廃止され、新たに参勤交代が導入され、本陣(諸大名、公家、幕府の重臣などの宿泊施設)・脇本陣、問屋場(といやば)(宿場の管理事務所)が設けられました。藤澤宿は江戸日本橋から12里12丁(約49㎞)、戸塚から2里(約8㎞)、平塚まで3里18丁(約14㎞)、京都まで113里8丁(約445㎞)の位置にありました。
江戸時代の宿駅の役目は、公用の人馬の宿(しゅく)継(つぎ)(人や馬を継ぎかえて宿駅から宿駅へと人や荷物などを送ること、継(つぎ)立(たて)ともいう)、宿泊、それに通信(飛脚)の三つの機能を備えることでした。

元禄7年(1694)東海道諸宿に助郷を設けました。藤沢宿の助郷村は鎌倉郡22,高座郡22ありました。。徳川綱吉が遊行寺の池に金魚、銀魚を放しました。

江戸時代中期になると江の島・鎌倉・大山などへの信仰と物見遊山を兼ねた客も多くなり、旅籠や商家も繁昌し、門前町から宿場町へと大きく発展しました。

●砂山(すなやま)観音堂(金砂山子育観世音)

交流館から遊行寺橋を渡り、左折してつぎの交差点を藤沢駅方面に向かうと右側にあります。

砂山観音堂(撮影:堀浩侃)

かつては遊行寺持の寺で金(きん)砂山(しゃさん)観音寺と称していました。本尊は聖(しょう)観音菩薩ですが、俗に帯解(おびとき)観音と呼ばれ安産・子育の観音として、特に女性に篤く信仰されていました。

寛永年間(1624~45)、名主 金井太郎左衛門清仲(出家して清西入道)が建立したといわれますが(藤沢市史5)、明治以降の度々の火災で再建の度に小さくなりました。この辺りは以前から独立した大きな砂山で、遠くからも良く見えましたが、現在では周囲の建物に埋没してしまいました。境内左側に鼻黒稲荷が祀られています(由緒不詳)。関東大震災犠牲者慰霊碑があり、裏に犠牲者160名の名が刻まれています。


「金砂山安産子育観世音」と刻まれた大きな石碑は、昭和10年、横浜貿易新報社(現神奈川新聞社)が県内の名勝史跡45ヶ所を、読者の投票で決める企画を立てた時、11万票を獲得し14位に入選したことを示す碑です。 相模国準四国八十八ヶ所霊場の58番札所でしたが、大師像は行方不明となっています。

【次回】は、第3回 ONSENガストロノミ―ウォーキングin藤沢 コース紹介コラム12 蔵前ギャラリー に続きます♪

投稿/ONSENガストロノミ―ふじさわパートナーズ


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