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自分をさらけ出すということ

こんにちは、ゆっきです。

茶助改め、ゆっきと名乗ることにします。

というのも、先日、私にとって先生であり、仲間であり、大好きな人、佐藤想一郎さんからこんなアドバイスをいただいたからです。


ゆっきは

もうすこしさらけだせたら

いいかもね。

生なましさというか

(生きてる感じ)

というか。


具体的にできることとして、「素材じゃなくてたまにはスマホで撮った写真とか使うのもありかも」とも言っていただきました。

そこでさっそく、昨日の記事には自分で撮った写真を使って記事を書いてみたのでした。

これだけではまだまだ生なましさが出せてないな、と感じていました。

どうしたらいいだろう・・

そんなときにたまたま聞いた音声からヒントがありました。

それは、『日記の魔力』という、表三郎(おもて さぶろう)さんが書かれた本についての音声でした。

音声の中で私が衝撃を受けた話がありました。

日記には感想は書かず、事実だけを書く。

(表さんは、日々の行動を記録するという、行動日記を勧められています)

その理由は、リアルな自分の姿を客観的に見ることができるからだそうです。

表さんが言うには、「人は、リアルな姿をさらけ出すことにショックを受ける」のだとか。

「こんなにしょぼかったのか・・」
「自分はぜんぜんできてないな・・」

なんていうふうに。

この話を聞いたとき、私が自分をさらけ出せていない理由はここにあったのかも、と気づきました。

ちょっとかっこつけたい自分がいたのかもしれません。

でも、それだけじゃない気もしました。

そこで、なんで自分をさらけ出せないのか、ノートに書き出してみました。

私は、自分のことを隠したかったんだな、と気づきました。

「ネット上であれこれ言っているのは、あなただったんだね!」と知人に知られたくなかった。

そう思うようになったきっかけも思い出しました。

それは社会人になって1年目のこと。

教員という仕事が辛くて、もっと簡単にお金を稼ぎたいと思っていた時に見つけた方をFacebookでフォローしていました。

そのことに気づいた姉の友人が、

「ゆっきちゃん怪しい人をフォローしてるよ!
気をつけた方がいいかも」

と姉に伝え、その後私は姉からあれこれ追及されたのち、危ないからフォローを外すようにと言われました。

自分がいいなと思っていることを批判されたことのショック。

自分の知らないところで監視されているような恐怖。

そういう気持ちがぶわっと出てきて、自分が大切にしたいことを堂々と知人に言えなくなっていきました。

原因はそれだけじゃないとは思いますが、そういうこともあってか、ネット上の自分は架空の人物っぽく描くようになっていきました。

だから、記事を書いてもそこに本当の自分はいないし、生きてる感も出なかったんだな。

もっとありありと、起きたこと、やったこと、言ったことをそのまんま書いていこう。

まだちょっと怖い気持ちもありますが、さらけ出すことに挑戦していこうと思います。

その一歩として、名前を変えました。

アイコンも、近々変えようと思います。


また、今朝聞いた音声から違うヒントをもらいました。


きれいな文章だけど、その人の中にあるドロドロした面、苦しい葛藤が描き切れていない。

辛いことって自分でも言葉にできないこともある。

だから、もっと感じようとすることが大切。


あぁ、私に言われているようだ、と感じました。

noteに記事を書くときには、noteっぽく書く癖みたいなものが出ていて、どこかきれいに、さらりと、軽めの文章を書いていました。

なんとか記事として更新したい、という気持ちが先行して、形だけ整えたような文章に。

失敗したこととか、苦しい思いをしたこととか、自分の気持ちにもっと向き合う時間が必要でした。


どんな気持ちになったのか?

どうしてそう感じたのか?


これからは、自分と対話するように、ノートに書き出す時間をとっていきます。


最後までお読みいただきありがとうございました。

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