輸送機の物語③ベルリン大空輸作戦!飢えたドイツ人たちを救え!
第二次世界大戦も連合国の勝利に終わり、前線のために影ながら物資を空輸し続けたC-47は勝利の立役者としてその名を残すことになりましたが、戦後にも大きな活躍が待っていました。
◆ソ連による西ベルリン封鎖事件勃発!
連合国の勝利に終わった第二次世界大戦でしたが、米ソの見せかけの友情は儚いもので、共通の敵がいなくなれば、すぐにお互いのイデオロギーの衝突を起こします。「冷たい戦争、冷戦」の始まりです。ドイツの占領政策を巡って対立した両陣営でしたが、ソ連は、自らの占領区域の中に浮かぶ、西側の占領地域、西ベルリンの道路と鉄道を封鎖する政策に出ます。
1948年の6月25日。ソ連は西ベルリンに通じるすべての道路と鉄道を封鎖します。直ちに物資不足に苦しむことになる200万人の西ベルリン市民が暴動やストライキをすることで、社会主義革命を狙った施策でした。
起きた僅かに残された輸送手段は、3本の空港のみ。200万人の西ベルリン市民の生活を支えるだけの物資を空輸だけで運べるとは、当時では考えられないことでした。
この完全封鎖に断固として立ち上がった西側は、物資の空輸作戦を実施します。これが「ベルリン大空輸」作戦です。
◆ベルリン空輸大作戦!
西ベルリンの市民が必要とする食料は一日あたり1,439トン、それ以外に石炭やその他の生活必需品が約3,000トン。空輸の最低量は少なくても毎日4,500トンとなります。
C-47などの輸送機なら100機が毎日11回は運ばないといけない計算です。戦争が終わってようやく民間機に戻ったDC-3(C-47)たちは、急遽100機以上かき集められこの作戦に参加することになります。C-47よりも大型のC-54輸送機もアメリカから運ばれ、この作戦の主役となるのですが、それまでの間にC-47が大活躍したのは言うまでもありません。
ソ連側の嫌がらせや妨害、威嚇や警告などをくぐり抜けて行われたこの作戦は、当初の目標の4,500トンを超え、1949年には5,540トンにも上るようになります。この作戦の成功により、ソ連の野望は挫折し、翌1949年5月に封鎖は解除、西ベルリンの社会主義化を断念することになります。
1年近い空輸作戦の飛行回数は約28万回。空輸物資量は230万トンを超えました。
この時の主役は戦闘機でもない、爆撃機でもありません。200万人の西ベルリンの市民の生活と士気を支え続けた輸送機たちこそが勝利の立役者になったのでした。今まで裏方の任務であった輸送機が歴史の主役になった瞬間でした。もし、この時に輸送作戦が失敗していたら歴史は変わっていたかもしれませんね。
参考文献→ベルリン封鎖(Wikipedia)
◆平和な時代に再び活躍するDC-3たち
戦争の需要がなくなって余剰気味となったC-47はその名を再びDC-3に戻し、DC-3Cという名称で再び民間輸送、旅客機としての装備を加え、生まれ変わることになります。
この頃には既にDC-3より大型で性能の高い機体も生まれていましたが、何より戦争を通して使われた信頼性とその性能はお墨付きです。余剰機なので、アメリカも安く海外の軍や旅行会社に提供し、戦前よりも更に多くの国で使われることになります。採用国の数はなんと96カ国。
軍から放出された数千機がアメリカ国内のローカル線、そして世界各国の航空会社に安く買い取られ、世界中にあまねく行き渡ることになるのです。世界の輸送ビジネスはこのDC-3によって1940〜50年代に著しい発展を遂げることになりました。
◆旅客・輸送機の任務を果たしたDC-3
こうして、1970年代には欧米ではDC-3は、あらかた姿を消しましたが、現在でも運用されている国もあり、80年以上を経た21世紀初頭でも、現役機は数百機単位で今も世界の空を飛んでいます。
日本でも海上自衛隊が1958年から1971年まで、R4D-6まなづるとして仕様していました。
南アフリカ海軍では対潜哨戒機として軍務にも就いている大変息の長い輸送機なのです。
このように、民間や軍用としても頑張ってきたDC-3。「必要なものを必要なだけ、必要なタイミングでなおかつ安全に確実に運ぶ」という物流の基本中の基本の使命を忠実に果たしてきた類まれなるヒコーキだと思うのです。
現在は、注文したら次の日には確実に家に届くという物流サービスが当たり前になってきていますが、そのサービスの奥にはこのような、ヒコーキたちやパイロット、それを支えてきたスタッフたちの努力の成果でもあることを知っていただけたら幸いです。
3回に渡り、お付き合いくださり、ありがとうございました。
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