「(K)not」第三十七話
八月の終わり、まだまだ暑い日は続いている。
空は抜けるように青いし、日差しは一向に弱まる気配を見せない。太陽はいつからこんなに気前が良くなったのだろう。まるでこのままずっと夏休みのままでいてと言う誰かのお願いを聞いてやっているみたいだ。しかし現実にはどんなに真夏日が続こうとも、暦の上で9月になれば二学期はやってくる。終わらない夏休みなど無いと知ることは、大人への第一歩なのだ。夏休みへの未練にどうにか折り合いをつけ世知辛さに慣れ、やがて皆、有給休暇には限りがあることを知る。
絶望を隠そうともせず、先程からテーブルに伏せっている瞬は、全く手を付けていない夏の課題に意味の無い幾何学模様の落書きをすることで現実逃避をしていた。
月曜の昼下がり、正一郎と和二郎は早朝から通常出勤して行き、理紀も大学へ出掛けた。襟人は晴三郎を迎えに車で病院に向かい、いま氷川家には瞬と爽しか居なかった。日中二階の自室は殺人的な気温になるから、省エネのためなるべく一箇所に集まってクーラーを点けるように言われているから、瞬はキッチンのテーブルに課題を広げ、爽はソファで本を読んでいる。
瞬は退屈過ぎて溜息を吐く。すっかり止まってしまった夏の課題を片付ける手で、USBに繋いだままのスマホを手に取り冷たい液晶に人差し指を押し当てる。瞬は起動したスマホの画面の紫の蝶のアプリを見つめた。
良かった、消えてない。夢じゃない。
今朝の日常ムーヴに、もしかして先週の出来事は退屈すぎる自分が見た夢だったのでは、と一瞬不安がよぎる。瞬は、現実かどうか確かめようとアプリをタップしようとしたが、ふと指を引っ込めた。いや今は止しておこうと思う。マチヤチノは多分相当お疲れだ。Vtuberとしての彼女も、今は活動を制限していることだろう。なにしろ先週の水曜からぶっ続けで遠隔同衾術を駆使して、昨夜生還したばかりなのだから。
聞きたいこと、突っ込みたいことが山ほどある。瞬はやり場を無くした好奇心の疼きに呻いた。
「大丈夫?」
プリントを掻きむしる瞬を心配して爽が声を掛けて来た。
「いたの!?」
自室から持ってきた自分の夏掛けに包まりページを捲る爽は、本当に居るのかいないのか分からないくらい静かだった。一体いつからそこに居たのか尋ねると「ずっといた」そうだ。長い間思い患っていたことがやっと解消され、爽の表情は少し穏やかになったようだ。
「さわっちは、これからどーするの?」
「お昼ご飯を食べて、それから晴さんの手伝いをする。」
「違うよ、今日これからとかじゃなくて、もっと先の!明日からの!未来の!もしかしてずっとこのまま引き篭ってるつもり?」
爽は苦手だったはずの、瞬の歯に衣を着せないズケズケとした物言いに驚いていた。彼の言葉はいつも爽の心に真っ直ぐに刺さってきた。事故のあと、自分を腫れもののように扱う人の言葉が苦しくて爽は耳を塞いだ。それ以来の、山葵や香辛料、強炭酸を口にしたときのような痛覚への刺激が爽快でもあり、何なら心地よい清涼感すら感じられたからだ。
長い間止まったままだった自分の心が動き出したことを実感した爽だったが、いつも通りボーっとしてんな、ぐらいにしか見えなかった瞬はさらに尋ねた。すると爽はぽつりと「学校は行きたい」と言った。
「無理じゃね?」
脳と直結している瞬の口からつい悪意のない感想が漏れた。刺激が強すぎて心を抉られた爽が俯いてしまったので、
「ああ、ごめんごめん。そーゆー意味じゃなくて。二年生は無理って意味。だって一年の一学期しか行ってないじゃん?義務教育じゃないんだから、フツー落第でしょ。もっかい一年から・・・」
瞬は慌てて取り繕おうとしたが、青ざめていく爽の顔色に気付き、
「あっ、えっとやり直し?じゃない、えっと何だっけ、リューネン?いーじゃん、威張れるじゃん、周りみんな年下だよ?ハハッウケる。」
必死になって繕えば繕うほどボロが出て止まらなくなった瞬はもう笑うしかなかった。爽は完全に両膝に顔を埋め夏掛けを頭から被って沈黙した。うん、俺はこーゆーの向いてない。自分の資質を明らかに見極めた瞬が、夏の課題に集中しようと頬を張り深呼吸をした時、玄関ドアが開く音がした。誰かが帰宅したのだ。落ち着きなく椅子を飛び降り玄関へと走った瞬はすぐにドアを開けず、ピタリと耳を付けて廊下の声を伺った。
「お父さん、おかえりなさーい」
勢いよくドアを開けた瞬に驚いて、身を引いた拍子に傾いた体を支える様に襟人が晴三郎の肩を抱く。
「大丈夫ですか?掴まってください。」
「おとーさん、お腹すいたぁ。お昼ご飯なに?アイス食べたーい。」
瞬は、小さな子供のようにわざと甘えて晴三郎に抱きつく。
「もー、きのーの夜なんて、コンビニのおにぎりとカップラーメンだったんだよぉ。」
「はいはいごめんね、ちょっと待ってね。」
纏わり付いてきた瞬の頭に掌を置き、愛おしそうに緑色の髪を撫でる晴三郎には見えないように、瞬は襟人にドヤ顔を返した。しかし襟人は全く動じず、
「食べるものがあるだけ十分だろ、それにお前おいしいって言ってたじゃないか。」
「えーうそぉ、俺おとーさんのご飯がいいよぉ。」
「瞬、晴三郎さんは退院したばかりなんだから。僕がすぐ用意するから待ってなさい。」
「えっいいよ、襟人くん。全然大丈夫、僕が作るし。」
「貴方はまだ休んでいてください。さっきもふらついてたじゃないですか。」
「あれはマドにびっくりして・・・」
放っておいたらいつまでもイチャついていそうなので、瞬は晴三郎の背を押して部屋の中に入って行った。待ち構えていた爽がソファからすっくと立ち上がる。夏掛けがふわりと床に落ちた。
「晴さん。」
「ああ、爽ちゃん。」
聖名の意識が戻ったことで、晴三郎との間を隔てていた壁にも変化が生じている。爽は壁に出来たドアから少し顔を覗かせて言葉を選んでいた。晴三郎は瞬の父親だが、息子のように自分の心に一直線には入ってこない。話がある時はノックをして自分の反応を待ってくれる。でも聖名が眠ったままになって、晴三郎にも壁があることに爽は気付いた。その壁にドアがあるなら、今度は彼がしてくれた様にノックしたい。自分の方から。
「晴さん、ごめんね。ありがとう。」
「僕も。爽ちゃん、聖名を見つけてくれてありがとう。」
二人は微笑いあって、そして少し泣いた。
序〜第三話、はてなブログからの転載です。